在来仏教13宗56派とは?|御本尊様やお題目など日蓮宗不受不施派の特徴について解説

日蓮宗不受不施派アイキャッチ

信仰心の希薄化が取り沙汰される現在の日本ですが、国内で営まれる葬儀の8割前後が仏式で執り行われているようです。
しかし菩提寺を持たない家庭も増えていることから、葬儀を依頼できる僧侶がいないという方も多く、自分の家の宗派を把握していないケースも少なくありません。

一般の方が、仏教を含む宗教に対して親しみを覚えない要因の1つとして、自身の家が代々信仰してきた宗教に関する知識の不足もあるのではないでしょうか。
近年では核家族化などの影響から、親世代と子供・孫世代が離れて暮らしているケースも多く、信仰に関する経験や知識が継承されにくくなっているようです。

葬儀業界では葬儀施行単価の下落が深刻な状況となっていますが、宗教儀式に対する関心の低下も葬儀の簡素化が進む原因の1つと考えられます。
葬儀のもつ意義を一般の方に理解してもらうためにも、仏教離れの流れに歯止めをかける必要があるでしょう。

日本には古くから受け継がれてきた在来仏教が13宗56派あり、各宗派を信仰する方が仏教徒の多くを占めているようです。
本記事では、在来仏教宗派のうち日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)について、わかりやすく紹介します。
葬儀社様の業務に活かせる部分もあるかと思いますので、ぜひ最後までご覧ください。

目次

日蓮宗不受不施派の概要

日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)は、日蓮宗から分派した宗派です。
分派して一宗派が立ち上がった経緯については、国家権力との対立が大きく語られるところであります。

日蓮宗派門流においては、宗祖日蓮聖人から守られている「不受不施(ふじゅふせ)」という下記のような思想があります。

不受:宗派僧侶は宗派信者でない者からの施し(布施)を受けない
・不施:宗派信者は宗派僧侶でない者に対して施し(布施)をしない

元来、日蓮宗派門流のほとんどがこの思想を守っていたと伝えられます。
しかし時代が進むにつれて、思想を守るべきという「不受不施」の派閥と、柔軟に考えた方がよいという「受布施」の派閥が生まれたといわれます。

特に「不受不施」の思想は、時の為政者の要求と相いれない事態を生み出し、この問題は日蓮宗分派のきっかけになったうえ、のちに宗教弾圧にまで至る結果になったようです。
1595年、豊臣秀吉による千僧供養会への各宗派僧侶に対する出仕召請をめぐって、日蓮宗内部で意見の対立がおこってしまったことにすべてが始まったとされます。
豊臣秀吉が日蓮宗の信者ではなかったことから、この催しに出仕することで宗祖から守られていた「不受不施」の思想に背いてしまうことになると考えられました。

◆千僧供養会
豊臣秀吉が先祖亡父母追善のために8宗派から千人もの僧侶を集めて開催したといわれる供養会

この時、権力者である豊臣秀吉に逆らうことは避けるべきで柔軟に考えた方がよいという派閥と、あくまでも日蓮聖人の思想を守るべきという派閥で二分されてしまったようです。
この二分された派閥において、日蓮聖人の思想を守るべきと主張した僧侶に日奥(にちおう)がおりました。

日奥は、この日蓮宗内部の対立において、自らの主張を頑なに曲げなかったようです。
また、豊臣秀吉に供養会への出仕拒否を宣言し、当時住持として在籍していた京都の妙覚寺(みょうかくじ=日蓮宗の由緒寺院)を辞することになったといわれています。

この日奥を中心とした、日蓮聖人からの「不受不施」を守るべきという派閥は、その後徳川幕府によって禁教の扱いを受け、徹底的に弾圧されてしまうことになったようです。
しかし、僧侶や信者によって地下組織化が図られて存続していく道を選んだことで、弾圧によって派閥が消滅するところまではいかなったといわれています。

地下活動と不受不施派内部の論争

徳川幕府によって弾圧されてしまうことになった「不受不施儀」の派閥は、地下に潜って教団としての活動を継続する道を選択したとつたえられます。
地下に潜った教団の信者たちは、「法中(ほっちゅう)」「法立(ほうりゅう)」「内信(ないしん)」と分かれて活動して存続を図っていたようです。

法中:不受不施儀の僧侶
法立:不受不施儀の強信者であり、法中と内信の間を取り持っていた
内信:表面上他宗派信者を装って活動しておきながら、不受不施儀を信ずる信者

教義の上では、「内信」は直接「法中」に施すことができず、「法中」は直接「内信」の導師を勤められないということになっていたようです。
しかし、岡山県で「内信」の導師を「法中」が直接務めた事例が生じて、教団内で論争が起こってしまったとつたえられます。

この論争は、「法中」を清者、「内信」を濁法と称して「清濁論争」という呼ばれ方をしていたようです。
その結果、不受不施派は清濁を容認する日指派(ひざしは)と、それを認めない津寺派(つでらは)の派閥に分かれることになってしまいました。

弾圧の終わりと再興

時代が江戸から明治に変わり、岡山県の日正(にっしょう)という僧侶が各地を渡り歩いて、「内信」の統一化をはかったと伝えられます。この日正は日指派の僧侶であったといわれます。

そして、1876年(明治9年)に明治政府から「日蓮宗不受不施派」として派名公称の許可を得ることができたようです。日正により、岡山県に拠点を手に入れてその地に「妙覚寺」を開山しており、妙覚寺は宗派の祖山として現在に至ります。
また、1882年(明治15年)には津寺派が「日蓮宗不受不施講門派」として明治政府から公許されています。こうして「不受不施派」が分派することになりました。

その後、1941年(昭和16年)には「日蓮宗不受不施派」「日蓮宗不受不施講門派」が合同することになり、「本化正宗」と称することになりました。この合同は軍部の干渉によるものであったとされています。
「本化正宗」は、終戦後の1946年(昭和21年)にふたたび分派して、「日蓮宗不受不施派」と「不受不施日蓮講門宗」として現在に至っています。

日蓮宗不受不施派のご本尊様

十界大曼荼羅

日蓮宗不受不施派_日蓮宗本尊_曼荼羅

※画像引用:阿波掛軸堂

日蓮系の宗派で本尊としている曼荼羅であり、法華経の世界を文字で書き表した文字曼荼羅です。「南無妙法蓮華経」を中央に大書して、周囲には法華経に記されている諸仏、諸尊の名を書き表したものとなります。
なお、日蓮の直筆とされる大曼荼羅が、およそ120幅が現存しているといわれています。

参照:鷲峰会ホームページ「日蓮聖人大曼荼羅一覧」

日蓮宗不受不施派の開祖

宗祖 日蓮聖人(にちれんしょうにん)

日蓮宗不受不施派_日蓮聖人

日蓮宗不受不施派の開祖は、日蓮宗の開祖である「日蓮聖人」とされています。

日蓮は鎌倉時代に活躍した、日本仏教において著名な僧侶のひとりで、安房国(今の千葉県南部)に生まれ、12歳のときに初等教育を受けるために清澄寺(せいちょうじ=千葉県の日蓮宗寺院)に入ったといわれます。
当時の清澄寺は天台宗の寺院であったといわれており、道善房(どうぜんぼう)という僧侶を師として学んでいたようです。

その後は比叡山に移り、諸山・諸大寺を遊学したと伝えられます。
この遊学の中で「妙法蓮華経(法華経)」に触れ、法華経が最も優れている経典であり、これを世に広めていくことを決意したといわれています。
遊学を終えた日蓮は、清澄寺に戻り「南無妙法蓮華経」を説いたようです。

ところが、日蓮の主張は浄土教などの他宗を拒否するものであったようで、大きな波紋を広げることになったといわれます。
また、この時の日蓮の主張が、土地の地頭からの反発を招くことになって、清澄寺を去ることにつながったようです。

清澄寺から離れた日蓮は、その後鎌倉に移って布教活動をおこなったと伝えられます。
1257年に起こった大地震(正嘉地震=しょうかじしん)によって鎌倉が壊滅的な被害にあったことを契機として、日蓮は「立正安国論」を著述することになりました。

「立正安国論」は時の為政者であった北条時頼(ほうじょう ときより)に呈上されて、日蓮は国家の諌暁(かんぎょう)を求めたとされます。

◆諌暁(かんぎょう)とは
相手の誤りを指摘し、諭すことを表す言葉。
日蓮宗では、身命を捨てる覚悟で法華経を広め、権力者に対して日蓮宗への改宗を求めることを諌暁(かんぎょう)と呼ぶこともあるとされる

この日蓮の姿勢は浄土教の信者たちからの反発を招くことになり、鎌倉で拠点としていた草庵を焼き討ち(松葉ヶ谷の法難)されることになってしまいます。
焼き討ちから逃れることができた日蓮は、鎌倉を離れて下総国(今の千葉県北部)に移り、布教活動を行ったと伝えられます。

法難から1年たったころ、日蓮はふたたび鎌倉に戻りますが、幕府によって捕らえられてしまい、伊豆国伊東(今の静岡県伊東市)に流罪となってしまいました。
1263年に流罪を赦された日蓮は、母の看病のために故郷に帰ったといわれます。

故郷に帰った日蓮は、その地の地頭であった「東条景信(とうじょう かげのぶ)」から、浄土教の法敵であるとして襲撃されてしまうことになったようです。
この襲撃事件は「小松原の法難」として伝えられています。

この法難によって重傷を負った日蓮ですが、その後はまた布教活動に戻ったようです。
さらに、幕府に蒙古からの国書が届いたことをみて「立正安国論」の正統性を訴えて回ったといわれます。しかし、この動きが再度の法難を招くことになってしまいました。

三度目の法難は「龍ノ口の法難」として知られ、日蓮が斬首される直前までの事態になったようですが回避されて、佐渡へ流罪させられたとつたえられます。
この法難によって、信者から日蓮宗の信仰から離れる者が多く現れたといわれ、日蓮宗の危機ともいえる状況であったようです。

佐渡に配流された日蓮は、「開目抄(かいもくしょう)」「勧進本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」など多くの著作を執筆していたといわれます。
また、佐渡において大曼荼羅本尊を数多く図顕して門下に授与したと伝えられており、このことは「佐渡百幅」という言葉で逸話として残されています。

佐渡への配流は3年に満たない期間であったとつたえられており、日蓮は鎌倉にもどることになりました。
鎌倉に戻った日蓮は、幕府の要職と話し合いを持ったといわれますが、結局日蓮の諌暁が幕府に受け入れられることはなく、日蓮は鎌倉を離れることを決断したようです。

その後日蓮は甲斐国身延(今の山梨県身延町)の地に入って隠棲したといわれます。
身延の地で日蓮は、佐渡に引き続き著述活動をおこなっており、主なものでも「法華取要抄」「撰時抄」「報恩抄」などの著作を記していました。

また、この身延の地に日蓮宗の総本山である「久遠寺」が建立されており、日蓮が開山となっています。
身延に入ってからの日蓮は体調が思わしくなかったといわれますが、久遠寺が開山になってからさらに体調が優れず、1282年9月に身延の地を離れることにしたとつたえられます。

身延を離れて常陸国(現在の茨城県)の温泉に向かったとされますが、旅程で衰弱が進み、武蔵国(現在の東京都〜埼玉県のあたり)でそれ以上の進行を断念したようです。
武蔵国では日蓮に深く帰依していたといわれる「池上宗仲(いけがみ むねなか)」の屋敷に滞在したとつたえられます。そして、衰弱が激しかった日蓮はそのまま動くことができず、1282年10月13日、享年61歳で入滅することになりました。

日蓮の遺骨は久遠寺に送られており、今日まで護られています。
また、池上宗仲の屋敷があった地は霊跡として現在、日蓮宗の大本山寺院である「池上本門寺」になっています。

日蓮宗不受不施派で主に使用される経典

法華経(ほけきょう)

法華経は大乗仏教の代表的な経典といわれており、最も有名なお経のひとつとされています。正式には「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」といい、「法華経」は略称となります。
歴史上では、聖徳太子が法華経にかかわる著述を残しているとされており、このことから飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていたといわれています。

日本仏教においては、最澄による天台宗が法華経を根本経典としているため、日蓮宗に先立ち天台宗によって教学がされているようです。
日蓮は比叡山を拠点として修学していた時期があり、このときに法華経に触れているといわれています。

その後日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えるとともに「法華経」の信仰を説いて、日蓮宗が今日に継がれています。

日蓮宗不受不施派の代表的な寺院

日蓮宗不受不施派の寺院は、祖山である妙覚寺(みょうかくじ)のほか、おもに岡山県を中心に20の寺院ならびに教会が存在するようです。

参照:宗教年鑑(令和2年版)

祖山 妙覚寺(そざん みょうかくじ)

日蓮宗不受不施派の祖山である「妙覚寺」は、岡山県岡山市北区御津金川にある寺院です。「祖山(そざん)」とは、仏教において一つの宗派を開いた僧侶が住んでいた山のことをいいます。
寺院創建が明治時代の初期であるため、仏教寺院としての歴史は他一般の仏教寺院と比すると浅いものになります。

元々は難波抱節(なんば ほうせつ)という江戸時代の医師の邸宅でしたが、日正がこの地を手に入れて宗派の寺院を創建したことが祖山の始まりとつたえられます。
寺号は、京都にある日蓮宗の由緒寺院である「妙覚寺」の寺号を継いでいます。

寺院が創建された当初は「龍華教院」と称していたようですが、本堂が建立されたときに「妙覚寺」に改称されたといわれます。
京都の妙覚寺は、派祖の日奥上人が住持として在籍していたこともあり、過去には不受不施儀の拠点寺院でもありました。

祖山である「妙覚寺」の寺号は、過去に不受不施儀の拠点であった寺院を再興するという意味が込められていたともいわれています。

寺院の画像はこちらのブログに多数掲載されているのでご参照ください。

日蓮宗不受不施派の高名な僧侶

派祖 日奥上人(にちおうしょうにん)

日奥は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活動した、「日蓮宗不受不施派」の中心的人物であり派祖として知られる日蓮宗の僧侶です。
京都に生をうけた日奥は、10歳のときに京都妙覚寺の日典のもとで出家をしたとつたえられます。その後28歳のときに日典の法を継いだようです。

1595年に豊臣秀吉から召請をうけた千僧供養会への出席について、日蓮宗の「不受不施儀」に従い日蓮宗信者ではない豊臣秀吉に応ずるべきでないと反対を唱えています。
このことが、権力にあらがうことは避けた方がよいとする、「受布施派」と呼ばれる派閥と衝突することになり、日奥は京都妙覚寺を辞するに至ったとつたえられます。

1598年に豊臣秀吉が没して徳川家康の時代に変わった時、「受布施派」は日奥の主張が国主の権威を損なうとして訴え、大阪城において論争がおこなわれています。
この時に幕府が介入しておこなわれた論争が「大阪対論」として知られています。

論争の結果、日奥は対馬へ流罪にされることになったようですが、13年で赦されて、日奥は京都に戻ることになりました。日奥が京都に戻り、「不受不施派」と「受布施派」が一度は和睦する状況になったとつたえられています。
この和睦によって「不受不施派」にも幕府からの公許状が与えられたようです。

しかし、和睦後も両派は主張が対立していたとされ、和睦時代も長くは続かず、1630年にふたたび幕府の介入を受けて江戸城において論争がおこなわれました。
この論争がおこなわれて裁決が下されたとき、日奥は既に入寂されてしまっていたようですが、首謀者として死後にも関わらず対馬に流罪にされることになったといわれます。

なお、対馬には日奥の遺骨が流されたと伝えられており、また、この時に幕府が介入しておこなわれた論争が「身池対論」として知られています。
この一連の出来事が、現代に「不受不施派が江戸時代にキリスト教と同様に邪宗門と位置づけられて弾圧されていた」と伝えられている所以です。

祖山開山 日正(にっしょう)

日正は、幕末から明治にかけて活動していた「日蓮宗不受不施派」の僧侶です。幕府の弾圧から逃れていた日照という不受不施派の僧侶から教えを受けて、不受不施派の僧侶として活動したといわれます。

時代が明治に変わり、日正は新政府に対して不受不施儀の解禁を出願したことや、教部省に再興願書を提出するなどの活動をおこなったとつたえられます。
しかし政府からの理解が得られなかったり、受布施派からの反対運動などにあい、願書は受け入れられなかったようです。

また、特に岡山県では当時の権令であった石部誠中(いしべ せいちゅう)に弾圧されたといわれます。
明治9年に、日正と教部省で幾度のやりとりがなされ、不受不施派が公許されました。

日正は、現在地(岡山県岡山市北区御津金川)にあった難波抱節の邸宅を入手して、寺院を創建しました。
この寺院が「日蓮宗不受不施派」の祖山である「妙覚寺」となるのです。

日蓮宗不受不施派の特徴

日蓮宗不受不施派は、日蓮聖人の教義といわれる「不受不施」を主義とする宗派であり、ここに他宗との大きな違いが現れています。
この考え方が、時の権力者からの弾圧や宗派内部での対立を生み出してしまうことになり、ひと時は歴史の表舞台から姿を消してしまうことにつながったといわれています。

日蓮宗不受不施派のお題目

南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)

「南無妙法蓮華経」は、日蓮・法華系の仏教宗派で唱えられる言葉として知られています。
「南無」は帰依します・信じますという意味の言葉であり、それに「妙法蓮華経」が繋げられているので、「妙法蓮華経(法華経)に帰依します」という意味の言葉になります。

「妙法蓮華経」の五文字には、多くの人々を教え導いたお釈迦様の智慧・慈悲・功徳がすべて備わっているとつたえられます。
その「妙法蓮華経」を一心に信じて「お題目」として唱えれば、どのような人であっても仏性が目覚めて、まことの成仏の道を進むことができると教えています。

この「南無妙法蓮華経」は、「お題目」と称されて特に日蓮・法華系で唱えられていますが、広めたのは日蓮聖人であるといわれています。

日蓮宗不受不施派の葬儀について

日蓮宗不受不施派の葬儀については、明確な資料などが散見されないため、宗派独自の葬儀式を明示することはできません。しかし、日蓮聖人の教義を守っている宗派であることから、ここでは日蓮宗の葬儀式を参考として紹介します。

日蓮宗不受不施派の葬儀の流れ・式次第

日蓮宗不受不施派_日蓮宗の数珠

まずは葬儀を執り行うに際して、菩提寺に連絡をする必要があります。そうして、菩提寺の僧侶と葬儀の日取りを決めなければなりません。
また現代では、同時に葬儀社へ連絡をして葬儀施行を依頼することも必要とされています。

枕経

菩提寺に連絡をすると、僧侶が「枕経(まくらきょう)」をあげるために故人様のもとを訪れることになります。枕経とは、故人様の枕元であげるお経のことをいいます。
枕経は、僧侶の都合に左右される儀式であるため、故人が目を落とされてすぐに執り行われない場合も多いようです。

枕経を執り行う際には、故人様の枕元に「枕飾り(まくらかざり)」と呼ばれる小さな祭壇を設け、僧侶に読経していただきます。
現代では、枕経が終わったのち、僧侶から葬儀の日取りの打ち合わせと、故人様の戒名もしくは法名を授けるためにお人柄の聞き取りがおこなわれます。

枕経には、葬儀を依頼する葬儀社も立ち会うことが多いので、事前に葬儀社にも枕経の日時を連絡するとよいでしょう。
また、地域の風習や菩提寺の都合などで、枕経と通夜をあわせておこなうこともあるようです。

通夜式

通夜式は、一般的に葬儀(告別式)の前日夜に執り行われる儀式です。通夜の儀では、僧侶の読経や法話をいただくことになります。

通夜式については、特別の定めがあるわけではなく、通例として行われている流れがあるようです。
一般的には、道場偈(どうじょうげ)や三宝礼(さんぽうらい)、四弘誓願(しぐせいがん)、奉送(ほうそう)といった、葬儀式でも執り行われる儀式がされるようです。

なお、式次第は地域の風習や菩提寺によってやり方が異なる場合もあります。
事前に菩提寺や葬儀を依頼した葬儀社に確認されるとよいでしょう。

通夜の席では遺族をはじめ親族、故人の縁者などが集まり、故人に付き添いながら夜通し偲びます。以前は、会葬者には飲食がふるまわれて、遺族は蠟燭や線香の火を絶やさないようにして、夜通し故人を見守っていました。
現代では、「家族葬」などといった形式で執り行われる葬儀が増加しており、その場合は遺族・近親者のみで通夜が執り行われることも増えてきているようです。

葬儀

葬儀(告別式)は通夜の翌日に執り行われる儀式です。
現代の葬儀では、葬儀と告別式に明確な区別をしていないことが多く、両方を合わせて「葬儀」と呼んでいたり、「葬儀・告別式」と呼んだりしています。

日蓮宗における葬儀式の一例は下記のようなものがあります。
なお、通夜式と同様に、葬儀式の式次第は地域の風習や菩提寺によってやり方が異なる場合もありますので、事前に菩提寺や葬儀を依頼した葬儀社に確認されるとよいでしょう。

  • 入場
    • 参列者は僧侶(導師)が入場される前に着席しておくように案内します。
    • 司会者のアナウンスで僧侶(導師)が式場へ入場してきます。
  • 開式の辞
    • 司会者が葬儀の開式をアナウンスします。
  • 総礼(そうらい)
    • 僧侶ならびに会葬者が合掌し、お題目である「南無妙法蓮華経」を3回唱えます。
    • お題目を唱えた後には礼拝(らいはい)します。
  • 道場偈(どうじょうげ)
    • 諸仏諸尊を招くといわれている声明(しょうみょう)の「道場偈」を唱えます。
  • 三宝礼(さんぽうらい)
    • 三つの宝とされる「仏」「法」「僧」を敬い礼拝します。
    • このとき僧侶は、起居礼(きこらい)と呼ばれる、蹲踞(そんきょ)ー起立ー蹲踞する礼拝の動作をおこないます。
    • 「仏」は釈迦を、「法」は妙法蓮華経を、「僧」は日蓮を指しているといわれます。
  • 勧請(かんじょう)
    • 久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊をはじめとして、四菩薩、諸仏諸尊、日蓮聖人を迎えます。
    • 日蓮宗において四菩薩とは、上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、浄行(じょうぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)を指しています。
  • 開経偈(かいきょうげ)
    • 法華経の功徳をたたえるべく、お経を唱える前に「偈」を唱えます。
  • 読経(どっきょう)
    • 法華経の重要なお経である「方便品」などを唱えます。
  • 咒讃(じゅさん)
    • 声明を唄います。僧侶が複数名いる場合は楽器を演奏して、諸仏を供養するとされています。
  • 開棺
    • 僧侶が棺の前に進んで焼香をし、中啓(ちゅうけい)で棺のふたを3回打ち鳴らします。
    • このとき開棺の文章を読み上げます。
    • 中啓とは、扇子の一種で畳んだ時に先端が閉じておらず開いているものをいいます。
  • 引導(いんどう)
    • 僧侶が霊前に進んで払子(ほっす)を3回振ります。その後焼香を3度した後に引導の文章を読み上げます。
    • 払子とは、獣毛や麻などを束ねて柄をつけた導師の装身具のことをいいます。
  • 弔辞・弔電
    • 弔辞が用意されていれば、霊前にことばをかけていただきます。
    • 弔電が届いていれば弔辞に引き続いて拝読し、会葬者へ披露します。
  • 焼香(自我偈=じがげ)
    • 法華経の中の偈文で、「自我偈」と呼ばれている部分を唱えます。
    • この「自我偈」を唱えている間に、遺族をはじめ会葬者が焼香をします。
    • 「自我偈」は、法華経の中で最も大切な教えであるといわれています。
  • 祖訓(そくん)
    • 日蓮聖人が残された言葉を拝読します。
  • 唱題(しょうだい)
    • 日蓮宗のお題目である「南無妙法蓮華経」を唱えます。
  • 宝塔偈(ほうとうげ)
    • 回向の前に唱えられる偈文とされている「宝塔偈」をここで唱えます。
    • 「宝塔偈」は法華経の功徳を説いている偈文であるといわれています。
  • 回向(えこう)
    • 故人の成仏を願い供養します。
    • 故人が霊山浄土(りょうぜんじょうど)の地へたどり着くことを祈ります。
    • 霊山浄土とは仏様の浄土のことであり、日蓮宗ではこの霊山浄土が現世(娑婆という言い方をします)にあると考えているようです。
  • 四誓(しせい)
    • 「四誓」とは、すべての仏や菩薩がはじめに掲げる四つの誓いの言葉のことをいいます。
    • ここでは、この四つの誓いの言葉を唱えます。
    • この「四誓」は、正しくは「四弘誓願(しぐせいがん)」といいます。
  • 三帰(さんき)
    • 三つの宝である「仏」「法」「僧」に帰依するための声明を唱えます。
    • 三宝に帰依することで、仏道に精進することを誓う意味があります。
  • 奉送(ほうそう)
    • 道場(葬儀の場)にお迎えした諸仏諸尊を本土(浄土)へお送りするための声明を唱えます。
  • 閉式・退場
    • 儀式が終わり、僧侶(導師)が退場します。
    • 司会者が葬儀の閉式をアナウンスします。

おわりに

この記事では、日蓮宗不受不施派について紹介しました。

この「日蓮宗不受不施派」は、日本の仏教宗派としては、おもに一部地域で信仰が深くされている宗派であるといえるでしょう。

日本の宗教史においても、仏教の一宗派でありながら、時の為政者から弾圧を受けて禁教の扱いをされるなど、日本仏教の中では特異な時代の歩み方をしていたと推測されます。

しかし、地下に潜ってまでその法嗣を現代につたえており、信者の想いも現代に継いできたのではないでしょうか。

宗派の特徴として、他宗と相容れないという隔絶とした考え方を持ちますが、それは開祖たる日蓮聖人からの教えを真摯に守ってるということでもあります。

宗派の資料なども少なく、その教義に触れることは簡単ではありませんが、現在でも祖山を中心として活動をしているので、その地を訪れてみてはいかがでしょうか。

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