高齢社会は、多死社会。いつか迎える親の死。息子である40代のわたしは、その一人でした。また、死はいつか自分にもやってきます。死は遠いことかもしれませんが、死を想うことは、今の生を想うことこと。だからこそ、今、じぶんらしい弔いを考えてみたい。わたしは、自分の母の散骨をタイのメコン川でしました。その時の顛末をこれから3回の連載でお伝えします。筆者は、サラリーマンを辞め、タイの大学で看護を学び、現在は、タイ人の妻とともに東北部にあるウドンタニ県に住んでいます。異国の地で出会った弔いに、母の老いと死に悩む私は多くのことを気づかされました。第1回目の今回は、わたしが経験したタイのお葬式についてです。
お棺を買いに行く。
義母が亡くなった。自宅で亡くなるのが主流のタイでは、葬儀の大部分を自宅で行う。
タイには、日本のような葬儀一式を取り仕切る会社はない。すべて家族、近所の人、お寺と協力してやるのだ。
深夜、葬儀用品を扱う店にお棺を買いに行く。閉じたシャッターを叩くと、すぐに開けてくれた。24時間営業とのこと。お店には、花、ろうそくなどの他に、日本人が想像できないようなものもある。例えば、火葬の時に、お棺にいれる個人があの世で使う生活用品などの紙の模型などだ。
お気に入りの服を着せた義母をお棺に移す。「お母さん、涼しくて、なかなか快適ですよ」まるで、新しい布団を買ってきたように話しかける義兄。冷蔵装置を外付けにできるお棺だったのだ。常夏の国、タイでは必要なものであり、自宅での葬儀が可能なのは、この機械のためだと、後日、タイ人が説明してくれた。
「まずは、おなかをいっぱいに」
夜明けの台所は、近所の人たちでカオス状態だった。義母のために、葬儀でふるまう料理を作りに来ているのだ。義母は、雑貨屋を切り盛りしていた。コンビニがなかった時代の雑貨屋は、買い物だけではなく、世間話をする場でもあった。この店で最も売れる商品といえば、それは義母のおしゃべりだったのかもしれない。
グリーンカレー、鳥のからあげ、魚の胃袋のスープ、パパイヤサラダ、、。香りが漂ってくる。義母と仲が良いおばさんが「まずは、おなかをいっぱいに」と大きな肉切り包丁を振りおろしながら、私に話してくれた。タイの人たちは、ご飯をみんなで食べることだけでなく、作ることも大好きだ。野菜や肉を切り、炒める、そしてしゃべり、笑い、そして食べる。それは、生前の義母とのいつもの食事の時と同じだ。空腹を感じたわたしは、おばさんたちや妻たちと朝ごはんを食べ始めた。義母にお供えする食事を傍らに置きながら、、。
こども、大人、知ってる人、知らない人、犬と猫も、入り混じる。
自宅の前で、急遽、舞台が作られた。
何をするのだろう?と思っていたら、ちびっ子のカラオケ大会が始まった。
ちびっ子たちは、化粧をし、衣装も改めて大張り切りだ。いったい誰が主役の葬儀なんだ?と思ってしまう。やがてバックダンサー付きの歌手もやってきた。
葬儀期間の夜は、まるで祭りだ。焼き鳥、ラーメン、綿菓子などの屋台までやってきた。食事の準備の手伝いをする人、香典を置いていく人、ただ歌う人、ただ飲み食いする人、こども、おとな、知ってる人、知らない人、そして犬も猫も入り混じる。
そんな祭りのにぎやかさが、一瞬静かになるときがある。それは、お坊さんがお経を読む時だ。
おしゃべりをしていた人たちが、一斉に手をあわせる。この気持ちの切り替えの素早さには、おどろいてしまう。ちなみにタイでは、96%の国民が仏教徒である。
ふたたび賑やかさが戻った。舞台では、なぜかB級のホラー映画がはじまった。
わたしは、賑やかな音を聞きながら、お棺の前にひいたゴザの上で眠りに落ちた。
息子たちがお坊さんになる
義兄の剃髪が始まった。
葬儀の時は、亡くなった人の冥福のために、親族の男性がお坊さんになることが多い。とはいえ、葬儀期間の数日間のみの間だけである。この間は、一時出家とはいえ、近所のお寺で生活しながら、お昼以降は固形物を口にしない、酒と妻帯を禁ずる等のお坊さんの規則に従う。この日、義兄、義弟、義母の弟たち、義父の弟の5人が出家した。
タイでは、男性は生涯に一度は、出家するといわれている。出家することは、年長者、とくに親に対しての最高の徳を積むことになるという。義兄や義弟は、義母が生きている間に出家の姿を見せられなかったことを悔やんでいたようだ。剃髪後、義兄が流した涙の訳は、母の死への哀しみだけでなく、「やっと、親孝行ができた」ということだったようだ。
「灰になったおかあさんは、みんなのところに還る」
義母を火葬する日になった。
お棺をトラックに乗せ、斎場へと向かう。木綿の白い糸をお棺にくくりつけ、多くの人がその糸を握り、まるでお神輿をひくようにお棺を導いてゆく。先頭は義兄や義弟たち5人のお坊さん。お隣の散髪屋さんが、爆竹を鳴らしてくれる。
やがて家から500メートルほど離れたお寺に着いた。タイでは、一つのまちにいくつもお寺があり、そこには斎場があることが多い。
みんなで火葬のための建物の周囲を数回まわる。そのあとは、親族でお棺を担ぎ建物の階段を昇ってゆき、お棺を安置する。
そして、参列者が紙で作ったお花を持って、階段を昇ってゆく。お棺の前で、最後のお別れをする。お棺をさする人、声をかける人、記念撮影をする人も。
肉体を持った義母の姿が見れるのは、ここまでだ。
そして、扉がしまる。
お経の流れるなか、火がついた。
ここで一晩かけて、母はどこかへと向かうのだ。
高い煙突から煙がみえる。義母の友人のおばさんが言った「灰になったおかあさんは、みんなのところに還ってくるのよ」。
今日も、明日も、毎日、誰かが亡くなり、ここで灰になる。
この風景は、いつものことなのだ。
自分はただ気がつかなかっただけだ。
次回は、わたしの実の母のメコン河での散骨についてです。
今回の義母の葬式で、火葬の直前に、妻は義母の足の裏にマジックで印をつけたのです。なぜ?という私に、妻は「おかあさんが生まれかわって、誰かの赤ちゃんになって還ってきてもわかるように印をつけた」というのです。その言葉に、わたしは驚いてしまいました。そんな義母の死の数年後、わたしは、実の母の老いと死に悩んだまま、メコン川に母の散骨をしました。遺骨とお花が流れていくのを見ていると、あのときの妻の言葉が、はじめて自分の心にストンと落ちたのです。