信仰心の希薄化が取り沙汰される現在の日本ですが、国内で営まれる葬儀の8割前後が仏式で執り行われているようです。
しかし菩提寺を持たない家庭も増えていることから、葬儀を依頼できる僧侶がいないという方も多く、自分の家の宗派を把握していないケースも少なくありません。
一般の方が、仏教を含む宗教に対して親しみを覚えない要因の1つとして、自身の家が代々信仰してきた宗教に関する知識の不足もあるのではないでしょうか。
近年では核家族化などの影響から、親世代と子供・孫世代が離れて暮らしているケースも多く、信仰に関する経験や知識が継承されにくくなっているようです。
葬儀業界では葬儀施行単価の下落が深刻な状況となっていますが、宗教儀式に対する関心の低下も葬儀の簡素化が進む原因の1つと考えられます。
葬儀のもつ意義を一般の方に理解してもらうためにも、仏教離れの流れに歯止めをかける必要があるでしょう。
日本には古くから受け継がれてきた在来仏教が13宗56派あり、各宗派を信仰する方が仏教徒の多くを占めているようです。
本記事では、在来仏教宗派のうち臨済宗 相国寺派(しょうこくじは)について、わかりやすく紹介します。葬儀社様の業務に活かせる部分もあるかと思いますので、ぜひ最後までご覧ください。
臨済宗 相国寺派の概要
「臨済宗 相国寺派(りんざいしゅう しょうこくじは)」は、一般には禅宗と称されている臨済宗15派のうちの一派です。
京都府京都市上京区の「相国寺(しょうこくじ)」を大本山としています。
臨済宗 相国寺派は、大本山である相国寺の建立を起点に興った宗派です。
臨済宗の系譜の中では、栄西が汲んでいた「黄龍派(おうりゅうは)」ではなく、もう一派である「楊岐派(ようぎは)」の流れを汲んでいると見られています。
大本山の相国寺は、1382年、室町幕府第3代将軍であった「足利義満(あしかが よしみつ)」の発願によって伽藍が建立されたと伝えられます。
相国寺開山は、室町時代初期に活躍していた臨済宗の僧「夢窓疎石(むそう そせき)」とされており、それにともなって相国寺派開祖も夢窓疎石となっています。
しかしながら、夢窓疎石は相国寺建立の時には既に入寂されており、こうなった背景には、2世住持である「春屋妙葩(しゅんおく みょうは)」の言があったからといわれています。
春屋妙葩は、足利義満の禅の師であったといわれており、その縁で義満からは相国寺の開山として要請がされたようです。
しかし春屋妙葩がこれを固辞して、「師である夢窓疎石を開山とするならば自分は2世に就く」と発言したといわれます。
このことから、相国寺開山ならびに臨済宗 相国寺派開祖が「夢窓疎石」とされるようになったと伝えられます。
こうして足利義満の庇護によって繁栄していた相国寺派ですが、明治時代の廃仏毀釈の影響で困窮する憂き目を見たといわれます。
しかし、第126世住持に就いた「独園承珠(どくおん しょうじゅ)」の尽力によって、その寺勢を取り戻し、現在に至っています。
臨済宗 相国寺派のご本尊様
ご本尊とは、信仰の対象として寺院や仏壇などで祀られる、仏・菩薩像のことをいいます。
寺院創立の由来や、信仰によってご本尊が異なるうえ、各宗派や寺院によってそれぞれ一定のご本尊があるといわれています。
大本山 相国寺本尊「釈迦如来(しゃかにょらい)」
臨済宗 相国寺派大本山のご本尊には「釈迦如来」が祀られています。
また、相国寺派のほとんどの寺院では「釈迦如来(しゃかにょらい)」がご本尊として祀られているようです。
「釈迦如来」は、別名「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」とも呼ばれています。
この釈迦如来(釈迦牟尼仏)は、一般には「お釈迦様」と親しまれて、仏教の開祖として広く知られている存在です。
お釈迦様は、インドの釈迦族という部族の中で王族に生まれた人物でした。
しかし、若くして出家をし、苦行の末に悟りを開いたとされます。
その後は、集まった弟子たちにこの悟りを語り、弟子たちが教えを広めたことが仏教の始まりであるといわれています。
相国寺境外塔頭 鹿苑寺(金閣寺)本尊「聖観音(しょうかんのん)」
鹿苑寺では、「聖観音」がご本尊として祀られています。
聖観音は正しくは「観世音菩薩(観自在菩薩)」と呼ばれ、六観音の一尊であり、一般には単に「観音」といえば聖観音を指すようです。
聖観音は人間的な姿をしているとされ、他面でも多手でもなく一面二臂であるといわれます。
六観音のなかでは地獄で衆生を教え導く存在ですが、もとは「正法明如来(しょうほうみょうにょらい)」という如来でありました。しかし、衆生を救うために自らの位を下げて存在することにしているとされます。
日本で特に著名な観音像は、薬師寺(法相宗大本山)東院堂の「聖観世音菩薩像(国宝)」が挙げられます。
臨済宗 相国寺派の開祖
・相国寺第1世 夢窓疎石
夢窓疎石は、鎌倉時代末期から南北朝・室町時代にかけて活躍した、臨済宗の僧侶です。
相国寺開山の頃にはすでに入寂していましたが、第2世に就いた春屋妙葩の言によって第1世となり、それに伴って臨済宗 相国寺派の開祖にも位置づけられています。
はじめは天台や真言の教えをうけていたようですが、その中で疑問を覚え、禅の道に進むようになったといわれます。
京都の建仁寺をはじめとして、鎌倉や各地の禅寺に参禅して禅を学んでいったようです。
後醍醐天皇に請われて上洛するなど、時の権力者とのつながりが強かったとみられ、他にも室町幕府初代征夷大将軍であった足利尊氏からの帰依を受けていたと伝えられます。
その足利尊氏との関係から、臨済宗 天龍寺派の大本山である天龍寺の開山になっており、天龍寺派の開祖になっています。
弟子も多く輩出していたとされ、天龍寺第2世の「無極志玄(むきょく しげん)」や、相国寺第2世の春屋妙葩など、高僧が多数輩出されています。
そのため、臨済宗の中でも夢窓派と呼ばれる一大門派を形成したと見られているようです。
歴代の天皇から7つの国師号を賜っており、生前には夢窓国師・正覚国師・心宗国師、入寂後には普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師の国師号を賜与されています。
このことから、「七朝の帝師(しちちょうのていし)」と呼ばれています。
臨済宗 相国寺派で主に使用される経典
臨済宗 相国寺派では、宗派として特定の経典を定めていないようです。
臨済宗の修行では、悟りが師匠から弟子へ伝達されるといわれています。
具体的には、「公案」と呼ばれる師匠が提示する問題を、弟子が解くことで悟りに至るといわれ、綿々と引き継がれているようです。
他宗でみられる、諸仏の導きを得るために経典を読み、お題目を唱えるという教えとは異なります。
とはいえ、経典を読むこと自体は、古来より慣習や拠りどころとしておこなわれてきているようです。
臨済宗の儀式において読まれる経典は、「般若心経」や「観音経」などがあげられます。
臨済宗 相国寺派の代表的な寺院
臨済宗 相国寺派の寺院は、大本山である相国寺のほか、全国に111寺が存在するようです。
参照:宗教年鑑(令和2年版)
大本山 相国寺
相国寺は、京都府京都市上京区にある臨済宗 相国寺派の大本山寺院で、正式には「萬年山相國承天禅寺(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ)」といいます。
当時、足利将軍家の邸宅(通称=花の御所)の隣接した土地に建立されており、その敷地は非常に広かったといわれています。
寺院の創建は、当時室町幕府第3代征夷大将軍であった足利義満です。
開山は義満の禅の師であったとされる春屋妙葩に依頼したようですが、その春屋妙葩から「師の夢窓疎石を開山に」といわれて開山は夢窓疎石になったと伝えられます。
このことから春屋妙葩は2世住持に就くことになりましたが、開山の頃には夢窓疎石は既に入寂されていたため、春屋妙葩が実質的な開山であるとも言われているようです。
寺号の「相国寺」は、義満が春屋妙葩と、こちらも夢窓疎石の弟子である「義堂周信(ぎどう しゅうしん)」に相談した結果、付けられたものといわれます。
春屋妙葩からは「左大臣は中国では相国と言う、そしてあなたはいま左大臣の位にいる、ゆえに「相国寺」とはいかがだろうか」と答えられたとされます。
また義堂周信からは「大相国寺という寺が中国にあるゆえ大いに結構なこと、天皇に勅許をいただくなら承天相国寺はどうか」と答えられたといわれます。
歴史上では度々火災に見舞われ、全焼してしまう悲運にあったと伝えられますが、その都度再建がなされて現在に至っています。
火災後に復興されなかった寺院や、明治の宗教政策によって廃合されてしまった寺院の址地には現在、同志社大学、京都産業大学附属中学・高校があります。
室町幕府・足利義満の時代に、臨済宗の寺院において「京都五山」という格付けが定められています。「京都五山」とは、高い寺格をもつ臨済宗の寺院を称する呼び方です。
相国寺は第二位に叙されて、以降は足利義満庇護のもとで栄えることになりました。
義満の力で一時は第一位に叙されることもあったようですが、義満の没後は第二位に戻されています。
- 別格寺院:南禅寺【臨済宗 南禅寺派大本山】
- 第一位 :天龍寺【臨済宗 天龍寺派大本山】
- 第二位 :相国寺【臨済宗 相国寺派大本山】
- 第三位 :建仁寺【臨済宗 建仁寺派大本山】
- 第四位 :東福寺【臨済宗 東福寺派大本山】
- 第五位 :万寿寺【臨済宗 東福寺塔頭】
鹿苑寺(金閣寺)
「鹿苑寺(ろくおんじ)」は、京都府京都市北区金閣寺町にある寺院で、臨済宗 相国寺派に属し、大本山 相国寺の塔頭のひとつに数えられる寺院です。
一般には別称である「金閣寺」として名を知られており、現在では一大観光名所にもなって多くの拝観者が訪れている寺院です。
創建は大本山 相国寺とおなじく足利義満であり、開山も名目上とのことですが夢窓疎石であるとされています。
もとは足利義満の住まいであった北山山荘を、義満の死後に禅寺としたことが寺院の成り立ちです。
世に知られている金閣寺の呼び名は、中心的な建造物の「舎利殿」が全面金箔張りの荘厳な建物であることからといわれています。
1994年には、ユネスコ世界遺産の「古都京都の文化財」に構成されるかたちで登録されました。
鹿苑寺のご本尊は「聖観音(しょうかんのん)」であり、相国寺派の寺院としてはめずらしく「釈迦如来」をご本尊としていない寺院です。
慈照寺(銀閣寺)
「慈照寺(じしょうじ)」は、金閣寺と同様に、一般には銀閣寺として名を知られて観光名所にもなっている寺院です。
この慈照寺も、相国寺の塔頭のひとつに数えられる寺院になります。
創建は室町幕府第8代征夷大将軍であった「足利義政(あしかが よしまさ)」で、開山は金閣寺とおなじく夢窓疎石となっていますが、こちらも名目上の開山とされています。
もとは、義政の住まいであった東山山荘を、義政の死後に禅寺とあらためたものが慈照寺になりました。
著名になっている銀閣寺の呼び名は、中心となる建造物の「観音殿」が鹿苑寺の舎利殿にならって造られたことによるという説があります。
ご本尊は、大本山の相国寺と同じ「釈迦如来」です。
また、金閣寺とおなじくユネスコ世界遺産の「古都京都の文化財」に構成されるかたちで登録されています。
臨済宗 相国寺派の高名な僧侶
相国寺第2世 春屋妙葩(しゅんおく みょうは)
春屋妙葩(しゅんおく みょうは)は、室町時代に活躍した臨済宗の僧侶です。
師であり叔父でもあった高僧の夢窓疎石から法を継ぎ、天龍寺や臨川寺(りんせんじ=臨済宗 天龍寺派の寺院)、南禅寺の住持を務めたと伝えられています。
将軍職にあった足利義満からの帰依を受け、初代の僧録司(そうろくし=寺院や僧侶を取り締まる役職、役所のこと)に就くなど、信任も厚かったと見られています。
義満から大本山の相国寺開山にも請われており、これは辞退していますが第2世の住持に就いて、実質の開山であるといわれています。
また、春屋妙葩は「五山文学(ござんぶんがく)」と呼ばれる、禅僧による漢文学の発展に寄与したともいわれており、その業績が伝えられています。
相国寺中興祖 西笑承兌(さいしょう じょうたい)
西笑承兌(さいしょう じょうたい)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した臨済宗の僧侶です。36歳の時に相国寺に入り、夢窓疎石からの法を継いで、当時は荒廃してしまっていた相国寺を再建したとされます。
このことから、相国寺では中興祖として位置づけられており、また第92世住持も務めていました。
時の政権とのかかわりが深かったといわれており、特に豊臣秀吉と徳川家康に仕えたとされ、寺院行政だけでなく外交にも力を発揮したと伝えられます。
相国寺第126世 独園承珠(どくおん しょうじゅ)
独園承珠(どくおん しょうじゅ)は岡山県児島郡東児町出身の、幕末から明治時代にかけて活躍した、臨済宗の僧侶です。
相国寺の第126世住持を務めていたことに加え、明治時代の廃仏毀釈に対して、その政策に抵抗したことが知られています。
明治の廃仏毀釈の折には、教部省という宗教行政機関の下部組織、大教院の院長に就き臨済・曹洞・黄檗三宗総管長を兼任しています。
廃仏毀釈という日本の仏教史における悲劇に対して、禅宗界の最高責任者として問題解決に奔走した独園承珠によって、日本の禅宗が守られたといえるでしょう。
臨済宗 相国寺派の特徴
臨済宗 相国寺派のお題目
臨済宗で唱えられているお題目は「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」という言葉です。この「南無釈迦牟尼仏」とは、「釈迦如来に帰依します」という意味になります。
砕けた表現をすると、「お釈迦様を信じます」または「お釈迦様についていきます」ということになるでしょう。
臨済宗 相国寺派における年間行事
大本山 相国寺でおこなわれている主な行事(太字)と、臨済宗の一般的な行事を紹介します。
- 1月
- 元日~3日:修正会
- 3日:修正満散会
- 10日:臨済忌
- 17日:百丈忌
- 2月
- 15日:仏涅槃会
- 3月
- 春分の日:彼岸会
- 4月
- 8日:仏誕生会
- 5月
- 6日:鹿苑忌(足利義満の命日におこなわれる法要)
- 6月
- 17日:観音懴法
- 7または8月
- 1~14日:小施餓鬼会
- 15日:山門施餓鬼会
- 8月
- 19日:後水尾天皇忌(後水尾天皇の忌日法要)
- 10月
- 3~4日:普明忌(春屋妙葩の忌日法要)
- 5日:達磨忌
- 20~21日:開山忌(夢窓疎石の忌日法要)
- 12月
- 8日:仏成道会
- 大晦日:歳晩諷経・除夜の鐘
臨済宗 相国寺派の姉妹寺院
中国 大相国寺
中国の河南省開封市にある「大相国寺」は、大本山 相国寺の姉妹寺院です。中国において有名な仏教寺院のひとつといわれており、その創建は555年とされます。
当初は「建国寺」と称されていたと伝えられますが、寺運は衰退してしまい荒廃して寺院の跡すらわからなくなる程だったようですが、後に慧雲という僧侶によって跡地が発掘されており、再興されました。
その後寺院は唐の第5代皇帝の睿宗によって「相国寺」とあらためられています。
宋の第2代皇帝であった太宗(たいそう)によって「大相国寺」に改称することになり、開封の地でもっとも大きな寺院となったようです。
しかし、黄河の氾濫などの水害や戦火などの火災に見舞われるなどの不幸が重なり、寺勢は衰退して、ついには住持の居ない寺院になってしまったとつたえられます。
昭和58年4月に、日本の相国寺との「日中両相国寺友好寺院締結」を要請し、平成4年11月には締結調印がおこなわれて、交流が始まっています。
臨済宗 相国寺派の葬儀について
臨済宗の悟り(座禅)
「座禅」が重要視されている臨済宗では、自力で悟りを開いていくことを目指しており、その修行では「看話禅(かんなぜん)」と呼ばれる座禅をおこない、師との対話によって進められる独自の教えとなっています。
臨済宗の葬儀では、故人が仏弟子となって修行をおこなうことで、自らの仏性に目覚めるための儀式という意味を持つといわれています。
臨済宗の持つ葬儀の意味や意義とは別に、故人との永久の別れは、残された人たちにとっておとずれた悲しみが大きく、その心に空いた穴は簡単に埋まるものではありません。
そのため、残された人たちが悲しみを受け入れ、その悲しみを乗り越えるために必要な儀式として「葬儀」の存在は大きな意味を持つことでしょう。
臨済宗 相国寺派の葬儀を執り行うにあたって
葬儀を執り行うに際して、まずは菩提寺に連絡をして、葬儀の日取りを決めなければなりません。また現代では、同時に葬儀社へ連絡をして葬儀施行を依頼することも必要とされています。
菩提寺に連絡をすると、僧侶が「枕経(まくらきょう)」をあげるために故人様のもとを訪れます。
枕経
枕経とは、故人様の枕元に「枕飾り(まくらかざり)」と呼ばれる小さな祭壇を設け、その枕元であげるお経のことをいいます。
現代では、枕経が終わったら、僧侶から葬儀の日取りの打ち合わせと、故人様の戒名もしくは法名を授けるためにお人柄の聞き取りがおこなわれます。
枕経には、葬儀を依頼する葬儀社も立ち会うことが多いので、事前に葬儀社にも枕経の日時を連絡するとよいでしょう。また、地域の風習や菩提寺の都合などで、枕経と通夜をあわせておこなうこともあるようです。
通夜
通夜は、葬儀(告別式)の前日夜に執り行われることが一般的な儀式で、遺族をはじめ親族、故人の縁者などが集まって、故人のことを夜通し偲びます。
以前は、会葬者には飲食がふるまわれて、遺族は蠟燭や線香の火を絶やさないようにして故人を見守っていましたが、現代では「家族葬」という遺族・近親者のみで執り行われることも増えているようです。
臨済宗の葬儀の概略
通夜の翌日に執り行われる葬儀(告別式)は、残された人と故人との別れの儀式であり、故人を仏弟子にして送り出すための儀式です。
臨済宗の葬儀では、おおまかに3つの儀式が執り行われます。
授戒(じゅかい)
「授戒(じゅかい)」とは、僧侶が故人に対して、故人が仏弟子となるための「戒(戒律)」を授ける儀式のことをいいます。この儀式において、故人に戒名を授けられます。
戒名は、現代では亡くなってから葬儀の場で授けられることがほとんどですが、本来は生前に授けられるものでありました。
引導(いんどう)
「引導(いんどう)」とは道案内するという意味を持ち、僧侶が教えを説くことで、故人が悟りを開けるように導く儀式のことをいいます。
臨済宗の葬儀では独特の儀式があり、僧侶が柩の前で「喝(かつ)」と大声を放ちます。
「喝」は、臨済宗において特に使用されているといわれています。元は叱咤する声ですが、言語で説くことができない禅の教えを端的に示しているとされ、故人を涅槃へ導くとつたえられます。
念誦(ねんじゅ)
「念誦(ねんじゅ)」とは念仏誦経(ねんぶつじゅきょう)ともいい、僧侶が名号や経典を唱えることで、故人が無事あの世へ旅立つことができるように導く儀式のことをいいます。
臨済宗の葬儀式
ここでは、臨済宗葬儀の式次第の一例を紹介します。
地域の風習や菩提寺のやり方などで、すべて例のとおりに進行するわけではありませんので、くわしいことは菩提寺の僧侶や、葬儀を依頼した葬儀社に式次第などを確認していただくことをおすすめします。
葬儀では、故人様が仏弟子へと至って悟りの世界へ往生できるように、下記の儀式が執り行われます。
- 剃髪偈(ていはつげ)
- カミソリで故人の髪を剃ります。
- 現代の葬儀では、実際に髪を剃ることはせず、剃る真似をします。
- 剃髪は、煩悩を断ち切ることを意味しているといわれています。
- この儀式によって、故人が涅槃への一歩を踏み出すことになります。
- 懺悔文(さんげもん)
- 故人がこの世で犯した罪を懺悔するための文章が唱えられます。
- 三毒(さんどく)と呼ばれる煩悩を取り除き、清らかな心で行いを正し導きます。
- 三毒とは、仏教において「貪(とん=さまざまな欲)」「瞋(じん=怒りや憎しみ)」「痴(ち=愚かさ)」を表す言葉です。
- 三帰戒(さんきかい)
- 故人が仏弟子として、正しいあり方を誓うための文章が唱えられます。
- ここで、三宝(さんぽう)それぞれに帰依することを誓います。
- 三宝とは、仏教において「仏」「法」「僧」の三つの宝のことを表す言葉です。
- 血脈授与(けちみゃくじゅよ)
- 僧侶から故人へ血脈が授けられます。
- 血脈(けちみゃく)とは、仏教において教えや戒律が師から弟子へ脈々と伝えられてきたことを、人の血液の流れにたとえた言葉です。
- 生前に戒名を授けられていない人は、この場で戒名を授けられます。
- 現代では、生前に戒名を授かる人がほとんどいないため、仏教の葬儀において重要な儀式になっているといえるでしょう。
- 龕前念誦(がんぜんねんじゅ)
- 僧侶が棺の前に立ち、故人が悟りの世界へ往生できることを願う言葉を唱えます。
- 故人の冥福を祈り、「十仏名(じゅうぶつみょう)」を唱えます。
- 龕(がん)とは棺のことです。
- 十仏名とは、諸仏・諸菩薩の名号のことです。
- 鎖龕・起龕回向(さがん・きがんえこう)
- 棺を閉じるための回向文と、棺を起こして送り出すための回向文が唱えられます。
- 回向文に加えて、大悲呪(だいひしゅ)と呼ばれるお経が唱えられます。
- 大悲呪は禅宗でよく読まれているお経で、千手観音の功徳をといているお経といわれています。
- 打ち鳴らし(うちならし)
- 往生呪(おうじょうしゅ)と呼ばれるお経を唱えながら、鳴らしものを打ち鳴らします。
- 往生呪は、唱えることで心が喜びにあふれて一切の罪や煩悩を消すことができると言われているお経です。
- 鳴しものには「引磬(いんきん=持ち手の付いたリンのこと)」「太鼓」「鐃鉢(にょうはち=シンバルに似た鳴らしもの)」があります。
- 本来は、野辺の送りの道中に鳴らしていたものでした。
- 引導法語(いんどうほうご)
- 故人の生涯などを、僧侶が漢詩で文章にしたものが、この儀式において読み上げられます。
- この儀式では、僧侶が造り物の松明を祭壇に向かって投げます。
- 法語の最後には大きな声で「喝(かつ)」と一喝をあたえます。
- 一般には、この引導法語までが葬儀式となります。この後の儀式は告別式とされています。
- 告別式(こくべつしき)
- 葬儀は本来、親族や近親者が故人を浄土へ送るための儀式でありました。
- 告別式は、故人とゆかりのある人たちが故人との別れをするための儀式であり、葬儀とは区別していました。
- 現代の葬儀では、葬儀と告別式に明確な区別をしていないことが多く、両方を合わせて「葬儀」と呼んでいたり、「葬儀・告別式」と呼んだりしています。
- 荼毘諷経(だびふぎん)
- 観音経(かんのんぎょう)などのお経が唱えられます。
- 観音経は様々なお経の中でも最も尊いお経と言われており、このお経を唱えれば苦難から救われて、多くの幸せが授けられると説かれています。
- 読経の前に弔辞や弔電の読み上げをおこなう場合があります。式次第によっては僧侶が退席してから読み上げをおこなうこともあります。
- 焼香(しょうこう)
- 僧侶が焼香をしたあとで、喪主からはじまり遺族・親族、一般会葬者の順に焼香をしていただきます。
- 荼毘回向(だびえこう)
- 焼香が終わったあとで、故人を荼毘(火葬)に付するための回向文が唱えられます。
- ここでの回向文は、故人との縁者が荼毘に付されていく故人との最後の別れを、心の中で告げるという意味を持っているとされています。
- 出棺(しゅっかん)
- 霊柩車に乗せられた棺が葬儀場から出棺して、火葬場へ向かいます。
おわりに
この記事では、臨済宗 相国寺派について紹介しました。相国寺派は、臨済宗の一派として寺勢は大きくありませんが、大本山の相国寺は室町幕府の将軍家とのつながりが強く、寺格も高いことがあげられます。
多くの寺院と同様に、日本史上では度々の火災や明治の宗教政策によって一時は衰退してしまう不幸もありました。
しかし、その都度復興を果たすことができており、現在にその法脈をつなぎ続けています。
中国の寺院と姉妹関係を結ぶなど、他派では見られない取り組みがされている他、大本山の塔頭寺院に世界的に著名な金閣寺と銀閣寺を持つなど、特異な一面を持っています。
現在では、臨済宗の一派としてよりも、観光地として著名な寺院ではありますが、その歴史を感じることができる場所でもあるといえるでしょう。