信仰心の希薄化が取り沙汰される現在の日本ですが、国内で営まれる葬儀の8割前後が仏式で執り行われているようです。
しかし菩提寺を持たない家庭も増えていることから、葬儀を依頼できる僧侶がいないという方も多く、自分の家の宗派を把握していないケースも少なくありません。
一般の方が、仏教を含む宗教に対して親しみを覚えない要因の1つとして、自身の家が代々信仰してきた宗教に関する知識の不足もあるのではないでしょうか。
近年では核家族化などの影響から、親世代と子供・孫世代が離れて暮らしているケースも多く、信仰に関する経験や知識が継承されにくくなっているようです。
葬儀業界では葬儀施行単価の下落が深刻な状況となっていますが、宗教儀式に対する関心の低下も葬儀の簡素化が進む原因の1つと考えられます。
葬儀のもつ意義を一般の方に理解してもらうためにも、仏教離れの流れに歯止めをかける必要があるでしょう。
日本には古くから受け継がれてきた在来仏教が13宗56派あり、各宗派を信仰する方が仏教徒の多くを占めているようです。
本記事では、在来仏教宗派のうち真言宗 泉涌寺派(しんごんしゅう せんにゅうじは)について、わかりやすく紹介します。
葬儀社様の業務に活かせる部分もあるかと思いますので、ぜひ最後までご覧ください。
真言宗 泉涌寺派の概要
真言宗 泉涌寺派(しんごんしゅう せんにゅうじは)は、真言宗の一派で古儀真言宗に属する宗派です。
真言宗は、大きく「古儀真言宗」と「新義真言宗」に分かれています。
真言宗泉涌寺派は、「古儀真言宗」に属しており、真言宗開祖の「空海」の流れをくむ真言宗の派閥の一派となります。
宗派としては、開祖の「月輪大師 俊芿(がちりんだいし しゅんじょう)」が、寄進された寺院を四宗兼学の道場として興し、「泉涌寺(せんにゅうじ)」と名をあらためたことに始まるといわれています。
また、開祖の俊芿は「北京律の開祖」ともいわれていたように、特に戒律を重んじていたことで、当時の皇族たちが俊芿から授戒するといった縁ができました。
このことから、泉涌寺が皇室とつながって以降、皇族の葬儀や火葬を営むようになり菩提寺となった時代が続きます。
これが、泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれるようになった所以のようです。
時代が進み、明治に移ると政府の宗教政策によって泉涌寺の四宗兼学が廃されることになりました。
このときに泉涌寺は真言宗に組み入れられ、真言宗としての歩みがここから始まることになるのです。
また、明治政府による宗教政策の影響で、明治以降の皇族は神道との関係が深まることになり、皇族の葬儀や火葬は泉涌寺で営まれなくなります。
こうして明治時代に入って以降の泉涌寺は、真言宗として歩んでいくことになりますが、明治40年に「真言宗 泉涌寺派」として独立を果たしました。
その際に古儀八派連合制度(古義八派=真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派・真言宗東寺派・真言宗山階派・真言宗泉涌寺派・真言宗醍醐派・真言宗小野派 による連合)が組織され、加盟することで古儀真言宗の一派として位置づけられます。
その後昭和の時代に移ると、昭和16年には政府の宗教政策によって古儀真言宗と新義真言宗が合同することになり、「大真言宗」が成立します。
なおこの合同は、政府主導のもとで無理やりさせられたものと見られています。
戦後の昭和27年に大真言宗からの独立を果たし、「真言宗 泉涌寺派」として認められたようです。
真言宗 泉涌寺のご本尊様
ご本尊とは、信仰の対象として寺院や仏壇などで祀られる、仏・菩薩像のことをいいます。
寺院創立の由来や、信仰によってご本尊がことなるうえ、各宗派によってそれぞれ一定のご本尊があるといわれています。
真言宗 泉涌寺派総本山のご本尊
真言宗 泉涌寺派の総本山である「泉涌寺」では、「阿弥陀如来」「釈迦如来」「弥勒如来」の三尊仏がご本尊として祀られています。
通常は中央にご本尊を配し、両脇に脇仏を置くことが多いのですが、泉涌寺は三体ともにご本尊とされている、めずらしい形式です。
この三尊仏は、日本彫刻の歴史においてもっとも名を知られている仏師(ぶつし=仏像製作に従事する人)である「運慶(うんけい)」の作品と伝わっています。
三尊仏は「三世仏(さんぜぶつ)」とも呼ばれ、過去・現在・未来に対応しているといわれており、向かって左から「阿弥陀如来=過去」「釈迦如来=現在」「弥勒如来=未来」に配されているとのことです。
弥勒如来は弥勒菩薩が仏となった未来の姿とされています。
弥勒菩薩は現世で人々を救済するために、お釈迦様入滅の56億7千万年後に如来となることが約束されていると伝えられているようです。
「三世仏」は日本ではめずらしい形式ですが、俊芿が渡った当時の中国「宋」の時代では、流行していた形式だといわれています。
坐像は、平成20年7月から4年がかりで修復事業がおこなわれており、現在拝観できるのは修復後の姿です。
真言宗 泉涌寺派の開祖
真言宗 泉涌寺派の開祖は「月輪大師 俊芿(がちりんだいし しゅんじょう)」です。
俊芿は平安末期から鎌倉時代の僧で、18歳のころに出家し、観世音寺で具足戒(ぐそくかい=出家した修行者が守るべき戒律のこと)を授かったと伝えられています。
出家の以前、14歳のころより熊本県にある天台宗 常楽寺の僧、真俊に師事し天台・真言を修学していたといわれ、出家・授戒したのちは郷里に戻り正法寺を創建して、戒律を世に広めてゆくことになったようです。
俊芿が活躍していた鎌倉時代は、いわゆる「末法思想(まっぽうしそう=仏の教えが滅んでしまうという考え方)」が叫ばれていた頃で、日本仏教においても救いを得るために幾つかの宗派が興った時代でした。
また、仏教界では戒律がないがしろにされていた状況もあったといわれており、戒律を重要視していたとされる俊芿は、「律」を求めて中国に渡る決意をしたようです。
1199年には、「宋」の時代に入っていた中国に渡り、およそ12年にわたる在中期間において律・禅・天台教学を学び修めたとされます。
1211年に帰国した際は、律・天台など多数(一説には二千余巻)の書籍や書画(しょが=書道と絵画のこと)を持ち帰ったそうです。
帰国後は、栄西(えいさい=臨済宗の開祖といわれる鎌倉時代の僧)に請われて建仁寺(けんにんじ=臨済宗の寺院)に入ったとされます。
その後1218年に宇都宮 信房(うつのみや のぶふさ=鎌倉初期の武将で源頼朝の家臣といわれる)より仙遊寺(せんゆうじ)を寄進されて移り、律を本宗としつつ真言・天台・禅・浄土の四宗兼学道場にしたようです。
また、その際に伽藍などを整備して、寺院の名を「泉涌寺」にあらためたと伝えられます。
俊芿は泉涌寺において戒律の再興に力を入れていたとされ、このことから「北京律の祖」とも呼ばれているようです。
さらには、能書家としても名を知られる人物であり、日本に「宋」時代の中国書風を持ち込み、広めた功績は大きいとされます。
俊芿自身の書は、「宋」の地でも評価が高いものであったようです。
俊芿直筆といわれる、国宝の文書「泉涌寺勧縁疏(せんにゅうじかんえんそ)」は、日本の書道史においても貴重な品とされ、宋の四大家のひとり黄庭堅(こうていけん)の書に倣っていると伝えられます。
この「泉涌寺勧縁疏」は、俊芿が寄進された仙遊寺を整備して創建する際に寄付を願った文書で、当時の後鳥羽上皇に献上されたといわれるものです。
このことにより、泉涌寺開山に至っただけでなく、天皇家からの支援を得ることにつながり、後には御願寺として存在していくことになったようです。
真言宗 泉涌寺派で主に使用される経典
真言宗 泉涌寺派として、特定の経典はないようです。
真言宗としては幾つかの経典を読んでいるので紹介します。
- 「般若心経(はんにゃしんぎょう)」
- 「大日経(だいにちきょう)」
- 「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」
- 「蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)」
- 「瑜祇経(ゆぎきょう)」
- 「要略念珠経(ようりゃくねんじゅきょう)」
この中で一般的に名を知られている経典は「般若心経」です。
また、真言宗で唱えられるご宝号(ほうごう=他宗派ではお念仏やお題目と呼ばれます)は「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」という言葉です。
この「南無大師遍照金剛」とは、「弘法大師(空海)に帰依します」という意味になります。
真言宗 泉涌寺派の代表的な寺院
真言宗 泉涌寺派の寺院は、総本山である泉涌寺のほか、全国に68寺が存在するようです。
参照:宗教年鑑(令和2年版)
総本山 泉涌寺
泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市の東部(東山区)に位置する寺院で、真言宗 泉涌寺派の総本山です。
その開山については諸説あり、空海が道場を開いたとする説、藤原緒嗣(ふじわらの おのつぐ=平安時代の政治家)が創設した仙遊寺を基とする説、が挙げられています。
1218年に、当時は「仙遊寺」であった地に入った俊芿は、伽藍(がらん=僧があつまって住む場所)を整備します。
その際に、敷地の一角から清水が涌き出で、寺院の名を「泉涌寺」にあらためたことにより、俊芿が「泉涌寺開山の祖」と言われるようになりました。
泉涌寺は、俊芿が入山して律を本宗に四宗兼学道場として興されていくことになりますが、1224年に時の後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の綸旨(りんじ=天皇の意をうけて発せられる文書のこと)を受けたことで御願寺(ごがんじ)となります。
御願寺とは、天皇の発願によって建立もしくは天皇の帰依を受けた寺院のことで、泉涌寺では、四条天皇をはじめとする皇族の葬儀・火葬が執り行われることになりました。
境内には「月輪陵(つきのわのみささぎ)」「後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)」と呼ばれる陵墓が設けられて、泉涌寺で葬儀・土葬を執り行った皇族が埋葬されています。
また、月輪陵の背後にある山中には孝明天皇の後月輪東山陵、英照皇太后の後月輪東北陵が築かれています。
月輪陵(つきのわのみささぎ)ならびに後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)は、泉涌寺の山内に設けられた、天皇・皇后・親王など皇族の陵墓です。
25陵・5灰塚・9墓が営まれており、現在では宮内庁の管理となっています。
- 四条天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1232年〜1242年
- 後土御門天皇【灰塚=樹木】:天皇在位1464年〜1500年
- 後柏原天皇【灰塚=樹木】:天皇在位1500年〜1526年
- 後奈良天皇【灰塚=樹木】:天皇在位1526年〜1557年
- 正親町天皇【灰塚=樹木】:天皇在位1557年〜1586年
- 後陽成天皇【灰塚=石造九重塔】:天皇在位1586年〜1611年
- 後水尾天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1611年〜1629年
- 明正天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1629年〜1643年
- 後光明天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1643年〜1654年
- 後西天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1655年〜1663年
- 霊元天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1663年〜1687年
- 東山天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1687年〜1709年
- 中御門天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1709年〜1735年
- 桜町天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1735年〜1747年
- 桃園天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1747年〜1762年
- 後桜町天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1762年〜1771年
- 後桃園天皇【月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1771年〜1779年
- 光格天皇【後月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1780年〜1817年
- 仁孝天皇【後月輪陵=石造九重塔】:天皇在位1817年〜1846年
- 陽光太上天皇【月輪陵=無縫塔】
- 後水尾天皇皇后和子【月輪陵=宝篋印塔】
- 霊元天皇皇后房子【月輪陵=無縫塔】
- 東山天皇皇后幸子女王【月輪陵=無縫塔】
- 中御門天皇女御贈皇太后尚子【月輪陵=無縫塔】
- 櫻町天皇女御尊称皇太后舎子【月輪陵=宝篋印塔】
- 桃園天皇女御尊称皇太后富子【月輪陵=宝篋印塔】
- 後桃園天皇女御尊称皇太后維子【月輪陵=宝篋印塔】
- 光格天皇皇后欣子内親王【後月輪陵=石造七重塔】
- 仁孝天皇女御贈皇后繋子【後月輪陵=宝篋印塔】
- 仁孝天皇女御尊称皇太后祺子【後月輪陵=宝篋印塔】
- 光格天皇皇子温仁親王【墓=宝篋印塔】
- 光格天皇皇子悦仁親王【墓=宝篋印塔】
- 仁孝天皇皇子安仁親王【墓=宝篋印塔】
- 陽光太上天皇妃晴子【墓=無縫塔】
- 後陽成天皇女御中和門院藤原前子【墓=無縫塔】
- 後水尾天皇後宮壬生院藤原光子【墓=無縫塔】
- 後水尾天皇後宮逢春門院藤原隆子【墓=無縫塔】
- 後水尾天皇後宮新広廣門院藤原國子【墓=無縫塔】
- 仁孝天皇後宮新待賢門院藤原雅子【墓=無縫塔】
真言宗 泉涌寺派の高名な僧侶
真言宗 泉涌寺派の筆頭にあげられる僧侶は、泉涌寺派開祖の俊芿です。
また真言宗高祖の弘法大師 空海(こうぼうだいし くうかい)は、特に名高い僧侶として名をあげられます。
真言宗の開祖、弘法大師 空海
日本真言宗の開祖として、また日本仏教史だけでなく日本史や日本書道史においても重要人物として知られている平安時代初期の僧侶で、一般的には「弘法大師(こうぼうだいし)」としても知られています。
讃岐の国(今の香川県)に生を受けたのち、幼少期は叔父の「阿刀大足(あとのおおたり=伊予親王の侍読だったといわれる人物)」から、論語・孝経・史伝などの個人指導を受けたようです。
その後18歳で大学寮(だいがくりょう=当時の官僚養成機関)に入り、学問などを修めるべく励んでいたようですが、同時に山林で仏教的な修行をおこなっていたといわれています。
修行の日々を過ごすなかで出家を決意したとされ、官僚の道ではなく僧侶の道を歩むことになったようです。
24歳のときに「三教指帰(さんごうしいき)」という仏教書を著しており、この書で出家を宣言したといわれています。
804年には遣唐使の一員として中国に赴いています。
この時の空海はまだ無名の僧侶であったといわれ、日本で名が知られるようになったのは密教を日本に持ち帰ってからであったようです。
なお、同じ年の遣唐使には天台宗の開祖である「最澄」が居たといわれています。
中国に渡り長安の地に入った空海は、醴泉寺(れいせんじ)の僧「般若三蔵(はんにゃさんぞう)」と「牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)」から密教に必須とされる梵語(ぼんご=サンスクリット語)を学びます。
その後は、同じく長安の地にある青龍寺の僧「恵果(けいか」)」によって、真言密教を伝えられたとされます。
806年の日本帰国後からは、密教の第一人者として活動しており、816年には高野山に金剛峯寺を開山するなど、真言密教の修行と真言宗を世に広めるべく邁進したということです。
また、能書家としても知られており、嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに平安の三筆と称されています。
空海直筆の書が数多く、中には国宝として残されているものも存在するため、実際に目にすることができます。
真言宗 泉涌寺派の特徴
泉涌寺派の特徴、というより総本山である泉涌寺自体が「御寺」と呼ばれるように、非常に特色のある寺院として存在し続けており、他宗では見られない行事などが執り行われています。
泉涌寺でおこなわれる通常の年中行事もあわせて紹介します。
真言宗 泉涌寺派における年中行事
ここでは、総本山の泉涌寺にて執り行われる年中行事を紹介します。
- 1月1日~1月3日:修正会
- 1月成人の日:泉山七福神巡り(山内寺院)
- 1月:大般若法要
- 2月3日:星供法要
- 3月14日~16日:涅槃会
- 4月1日~8日:開山忌法要
- 5月:大般若法要
- 7月14日~15日:盂蘭盆法要
- 9月2日:静寛院宮法要 薮内献茶式
- 9月:大般若法要
- 10月7日~8日:舎利会法要
- 12月31日:結界諷経
総本山 泉涌寺における特別法要
泉涌寺は、御寺としてその役割を担っていたことから、現在では皇族の法要が営まれています。
- 1月:お初詣り
- 1月7日:昭和天皇尊儀御例祭法要
- 1月11日:英照皇太后尊儀御祥忌法要
- 1月17日:御合祭法要
- 1月30日:孝明天皇尊儀御例祭法要
- 4月8日:昭憲皇太后尊儀御祥忌法要
- 4月13日:稲荷大祭
- 5月17日:貞明皇后尊儀御祥忌法要
- 6月16日:香淳皇太后尊儀御祥忌法要 裏千家献茶
- 7月10日:御水向法要
- 7月17日:御合祭法要
- 7月29日:明治天皇尊儀御例祭法要
- 10月1日:稲荷大祭
- 12月22日:大正天皇尊儀御例祭法要
- 12月:お歳暮詣
真言宗 泉涌寺派の葬儀について
現在の世の中において「葬儀」とは、現世に残された人が天上に旅立つ故人を送り出すための儀式、という言われ方をします。
死は誰にでもおとずれるものですが、真言宗では「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」の教えが基本となっており、密教の修行をすることで、生きながらにして誰でもすぐに仏に成れるとおしえています。
しかし実際には、残された人たちにとって故人との別れの悲しみは大きく、その心に空いた穴は簡単に埋まるものではありません。
たとえ「即身成仏」の教えがあったとしても、実際に「葬儀」は、残された人たちが悲しみを受け入れ、その悲しみを乗り越えるために必要な儀式であるでしょう。
真言宗 泉涌寺派の葬儀を執り行うにあたって
葬儀を執り行うに際して、まずは菩提寺に連絡をして、葬儀の日取りを決めなければなりません。
また現代では、同時に葬儀社へ連絡をして葬儀施行を依頼することも必要とされています。
ここでは、真言宗の一般的な葬儀の流れを紹介します。
枕経
現代では菩提寺に連絡をすると、僧侶がはじめのお経(枕経=まくらきょう)をあげに来られます。
故人様の枕元であげるお経なので、枕経といいます。
枕経が終わったら、僧侶から葬儀の日取りの打ち合わせと、故人様の戒名を授けるためにお人柄の聞き取りがおこなわれます。
地域の風習や菩提寺の都合などで、枕経と通夜をあわせておこなうこともあるようです。
枕経には、葬儀を依頼する葬儀社も立ち会うことが多いので、葬儀社にも枕経の日時を連絡するとよいでしょう。
通夜
葬儀に先立ち、通夜が執り行われます。僧侶から読経と法話をいただくほか、通夜振る舞いで参列者に食事やお酒をふるまって、皆で故人の思い出を語り合います。
灌頂(かんじょう)
灌頂(かんじょう)とは、真言密教の儀式の一つで、仏様が故人の成仏を約束する意味でおこなう仏位を授ける儀式といわれています。
葬儀においては、故人の頭に数滴の水をかけて、故人が仏の位にのぼったことを証明する儀式です。
墓石に水を注ぎかけることも灌頂といいます。
納棺式、土砂加持(どしゃかじ)
土砂加持(どしゃかじ)とは、密教においておこなわれる修法のひとつで、清水で洗い清めた白砂を、護摩をたいて光明真言(こうみょうしんごん)を唱えることで加持することです。
この白砂を故人にかけることで、生前の罪を滅ぼすことができると考えられています。
葬儀
真言宗の葬儀は、葬儀をすることで故人を大日如来がおわす「密厳浄土(みつごんじょうど)」に送り届けるための儀式、と解釈されています。
葬儀をすることで、故人が密厳浄土に旅立つ前に、今生での不浄や悪習などを清めて浄化し、仏様から加護を得ることができるように供養する、という意味があるようです。
ここでは、真言宗の葬儀式次第の一例を紹介します。
現代では葬儀の様相も変化していますので、式次第をどのようにして儀式を執り行うかは、寺院や僧侶の考え方に依るようです。
葬儀を依頼する際に、僧侶と葬儀社が綿密な打ち合わせをおこなって、葬儀を施行する必要があるでしょう。
僧侶入堂(入場)
僧侶が式場に入ります。
塗香(ずこう)
故人の身体に香を塗ることで、穢れを取り除くとされています。
洒水(しゃすい)
洒水器(しゃすいき=金属製の小鉢)に入れた浄水で故人を清めます。洒水をするときの手順は下記のようになります。
- 洒水器を机上に置くもしくは左手に持つかします。
- 右手に持つ散杖(さんじよう)の先で水をかき回しながら、真言を唱えて浄水に霊力を与えます。
- 一定の所作で散杖を振り、浄水を散らします。
加持(かじ)
手に印契(いんげい=手と指を組み合わせて印を結ぶ密教の作法)を結び、金剛杵(こんごうしょ=古代インドの武器)を用いて、真言を唱えます。
三礼・剃髪
三礼文(さんらいもん=声明曲の曲名)を唱え、仏法僧に帰依し、僧侶がカミソリを手にして偈文(げもん=経典の中で仏や菩薩をほめたたえた言葉)を唱えながら頭を剃ります。
葬儀の場では、実際に髪を剃ることはしませんが、髪を剃る振りをして剃髪したということにすることが多いようです。
授戒(じゅかい)
故人に戒律を授けます。
表白(ひょうびゃく)
表白とは、法会や修法の場で、その趣旨を述べる文章のことです。
葬儀では大日如来をはじめとした諸仏に対して、故人の教化(きょうけ=教え導くこと)を願う儀式としておこなわれます。
神分(じんぶん)
法施(ほうせ=仏に向かって経を読み法文を唱えること)を行う儀式のことです。
葬儀では大日如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩・観音菩薩・閻魔大王などの降臨に感謝をし、その加護を願います。
また、故人の罪が滅ぶことや成仏も願います。
引導(いんどう)
故人が迷わず成仏できるように引導を渡します。引導を渡す際に偈を三遍唱えます。
再び表白と神分をおこなって、不動灌頂・弥勒三種の印明を授けることで、故人の即身成仏が成されます。
破地獄の印(はじごくのいん)
手に印契(いんげい=手と指を組み合わせて印を結ぶ密教の作法)を結び、真言を唱えることで地獄を破り、地獄から弔う霊を引き上げるとされます。
御引導大事
弘法大師引導の印、偈文、真言を授けます。
血脈(けちみゃく)
血脈(けちみゃく)とは、仏教において師から弟子に教えが伝えられることを、血のつながりに見立てた言葉で、日本では仏教以外でも使われる言葉です。
葬儀では、真言密教の血脈を授けます。
六大印明
真言を授けます。
諷誦文(ふじゅもん)
諷誦文(ふじゅもん)とは、故人の供養のために布施の趣旨などを記した文章です。
僧侶が読み上げます。
弔辞・弔電
参列者からの弔辞をいただくほか、弔電が披露されます。
参列者焼香
遺族・親族を含めた、参列者全員に焼香をおこなっていただきます。
後賛
声明を唱えます。
読経
お経を読み上げます。
真言宗の葬儀では真言・陀羅尼、回向を唱えます。
祈願
故人が兜率浄土(とそつじょうど=浄土のひとつで、弥勒菩薩が説法しているとされる)に往生するよう祈願します。
最極秘印
最極秘印という印を結び、葬儀式が終了となります。
退場
僧侶が式場から退場します。
出棺
故人へお別れの花などを手向け、出棺します。
おわりに
この記事では、真言宗 泉涌寺派について紹介しました。
宗派としては「真言宗」の一派に位置づけられていますが、歴史を紐解いていくと、真言宗から分派したという、単純な成り立ちではないことを知ることができます。
開祖の「俊芿」は、真言宗の開祖である「空海」の流れをくむ教えを直に受けたわけではなかったようです。
さまざまに学んだうえで、戒律を求めて中国に渡ることや、四宗兼学の道場を興すなどして独自の宗風を保っており、真言の枠には収まらない活動をしていたと考えられます。
また、総本山の「泉涌寺」は、過去には皇族とのつながりが強く、菩提寺として在った時代もあるため、宗派としての立ち位置は他宗にはないものと言えるのではないでしょうか。
特異な位置にいたと言える「俊芿」と「泉涌寺」ですが、歴史においては明治政府の宗教政策の影響で、皇族との関係が変化したことや真言宗に属することとなるなど、その時々の政策に翻弄された状況もあるようです。
総本山の泉涌寺は、「御寺」として皇族の陵墓が管理されているほか、名前の所以となった泉が現存しており、また楊貴妃観音といった文化財の数々が拝観できます。
また、仏前結婚式や算賀の祝(長寿を祈る祝賀の儀)といった、仏教寺院では非常に珍しい儀式を執り行っています。
一般的に想像される仏教寺院とは、また一線を画す寺院といえる施設ですので、興味がある方は訪れてみてはいかがでしょうか。