在来仏教13宗56派とは?|御本尊様やお題目など臨済宗 方広寺派の特徴について解説

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信仰心の希薄化が取り沙汰される現在の日本ですが、国内で営まれる葬儀の8割前後が仏式で執り行われているようです。
しかし菩提寺を持たない家庭も増えていることから、葬儀を依頼できる僧侶がいないという方も多く、自分の家の宗派を把握していないケースも少なくありません。

一般の方が、仏教を含む宗教に対して親しみを覚えない要因の1つとして、自身の家が代々信仰してきた宗教に関する知識の不足もあるのではないでしょうか。
近年では核家族化などの影響から、親世代と子供・孫世代が離れて暮らしているケースも多く、信仰に関する経験や知識が継承されにくくなっているようです。

葬儀業界では葬儀施行単価の下落が深刻な状況となっていますが、宗教儀式に対する関心の低下も葬儀の簡素化が進む原因の1つと考えられます。
葬儀のもつ意義を一般の方に理解してもらうためにも、仏教離れの流れに歯止めをかける必要があるでしょう。

日本には古くから受け継がれてきた在来仏教が13宗56派あり、各宗派を信仰する方が仏教徒の多くを占めているようです。
本記事では、在来仏教宗派のうち臨済宗 方広寺派について、わかりやすく紹介します。葬儀社様の業務に活かせる部分もあるかと思いますので、ぜひ最後までご覧ください。

目次

臨済宗 方広寺派の概要

方広寺 (1)-min

「臨済宗 方広寺派(りんざいしゅう ほうこうじは)」は、臨済宗15派のひとつで、静岡県浜松市北区引佐町奥山の「方広寺」を大本山として信仰を集めています。
後醍醐天皇の皇子である無文元選禅師によって、1384年に開山された方広寺は、東海地方を代表する禅寺として知られており、霊験あらたかな奥山半僧坊としても有名です。
境内には、国指定重要文化財の釈迦三尊のほか、七尊菩薩堂や五百羅漢などがあります。

臨済宗 方広寺派のご本尊様

臨済宗 方広寺派の大本山である方広寺の御本尊様は釈迦如来(しゃかにょらい)、脇侍仏は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)普賢菩薩(ふげんぼさつ)で、2014年に国の重要文化財に指定されました。
三尊仏は院派の最高傑作と呼ばれ、水戸光圀公とも深い縁があるといわれています。

臨済宗 方広寺派の開祖

臨済宗 方広寺派の開祖である無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、1323年後醍醐天皇の皇子として誕生しました。

父である後醍醐天皇の崩御後、翌年には京都の建仁寺(けんにんじ)において出家し、中国へ渡ります。1345年には大覚妙智寺に古梅正友(こばいしょうゆう)禅師を訪ねて修行し、各地を巡礼しました。
1350年に日本へ戻り、 方広寺を開いてからは、その徳を慕い多くの修行僧が集まったと伝えられます。

臨済宗 方広寺派で主に使用される経典

般若心経

臨済宗は座禅を悟りに至る手段であるとする宗派で、「お釈迦様の悟りは言葉では表現できない」と考えているため特定の経典はありません。
ただし、教義のよりどころとする根本経典を持たないというだけで、経典を否定しているわけではないため、臨済宗 方広寺派では「般若心経」「観音経」など、多くの仏典が日常的に読まれているようです。

臨済宗 方広寺派の代表的な寺院

臨済宗 方広寺派の寺院は静岡県西部を中心に161件あるといわれています。

大本山 方広寺

方広寺 (2)-min

正式な寺の名前は「深奥山 方広萬寿禅寺(じんのうざん ほうこうまんじゅぜんじ)」ですが、別称として「奥山半僧坊」と呼ばれることもあるようです。

1371年に無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、地域を納めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)から土地と建物を授かり、方広寺を開いたと伝えられています。
この際、無文元選禅師はかつて訪れたことがある中国の天文山方広寺の風景に似ていたため、「方広寺」と名付けたようです。

明治14年に起こった山林大火に見舞われるも、開山円明大師の御墓所と七尊菩薩堂、開山様本像、そして半僧坊真殿などは難を逃れました。
こういった経緯から、半僧坊は厄除けや火防(ひぶせ)、商売繁盛などの御利益があるとされ、広く信仰を集めています。

かつては癪(腹部や胸)の病気になった患者のための病院施設を開き、貢献した時期もあるようです。
また井伊直弼の母・おひよの出身である「奥山家」ゆかりの寺でもあり、徳川家康が三河・吉田城から遠州攻めを行う途中に、滞在したともいわれています。

慈眼山 福応寺(じげんざん ふくおうじ)

福応寺は静岡県浜松市にある、臨済宗 方広寺派慈眼山の寺院です。
寺院の名称については、公式ホームページで以下のように語られています。

『慈眼山福応寺』の名前は、観音経の中でも特に大事な
「観音様は慈しみの眼をもって衆生を視ています。その観音様の心をもって生きれば福徳が海のように広大に集まります。それゆえまさに観音様を一心に礼拝しなさい。」
という一節に由来します。
聖観音菩薩をご本尊とし、山内には北向観音堂、内野観音霊廟(永代供養塔)を祀っております観音様のお寺です。寺の名前にふさわしく、慈しみの心を以って皆様の福を願い、応えられるようにつとめて参りますので、どうぞ心和やかにお過ごしください。

出典:臨済宗方広寺派 福応寺「福王寺について」

開山は1601年と考えられていましたが、近年になって発見された古文書に『天台宗の恵心僧都が開山した』と書かれていたことから、当初は天台宗寺院だったと考えられます。
こういった経緯から、詳細な開山時期は分かっていないものの、平安時代の中期だと考えられているようです。

恵心僧都(えしんそうず)
恵心僧都(えしんそうず)は、平安時代中期の天台宗の僧侶、源信(げんしん)の尊称です。恵心院に住んでいたことから恵心僧都と呼ばれています。
源信は、942年に奈良で生まれ、13歳で出家し、比叡山で修行を積みました。天台宗のみならず、因明、性相、天台など幅広い分野に亘って著作を残しました。

古文書には、「御本尊の観世音菩薩は慈覚大師の作である」といった記述や、「一度修復したものの、火災で燃えてしまった」などと書かれているようですが、いずれも現存していません。
その後は長いあいだ荒れ果てていた時期もあったようですが、禅僧によって1641年に建立したといった記述もあるため、この時代が臨済宗寺院としての福応寺の始まりであると考えられているようです。

臨済宗 方広寺派の高名な僧侶

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奥山半僧坊

権現様とされているため僧侶といえるかは分かりませんが、開祖である無文元選禅師の弟子となった奥山半僧坊が有名です。

奥山半僧坊と無文元選禅師の出会いは、中国からの帰路でした。帰国の際、南シナ海のにおいて無文元選禅師は大嵐に見舞われ、船が沈みかける災難に見舞われたといいます。
荒れ狂う船の上で無文元選禅師は、必死に観音経を読んでいました。すると、目の前に目鼻立ちのはっきりとした外国人風の人物が、袈裟をまとった姿で現れます。

彼は無文元選禅師に「無文元選禅師が正法を伝えられるよう、無事日本に送り届けます」と宣言すると、船を博多に導きました。
お陰で無文元選禅師は日本に到着することができましたが、その人物はいつの間にか消えていたといいます。

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その後、無文元選禅師が方広寺を開くと、その人物が再び現れ「弟子にしてほしい」と申し出ました。
その際に「あなたは僧のような姿をしているので、今後は半僧坊と名乗るように」と無文元選禅師から告げられたため、以降は奥山半僧坊と名乗り、修行に励んだと伝えられています。

1390年に無文元選禅師が亡くなった際には、弟子の奥山半僧坊が、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」と言い残して姿を消しました。
それ以来、方広寺の守り神 半僧坊大権現として祀られているとのことです。

臨済宗 方広寺派の特徴

臨済宗 方広寺派で唱えられる念仏や修行方法などの特徴について紹介します。

臨済宗 方広寺派のお題目

臨済宗 方広寺派では、読経の前に「南無釈迦尼仏(なむしゃかにぶつ)」と唱えます。
禅宗では、坐禅と呼ばれる禅定の修行を継続することで、仏性を再発見することを目指しているため、同じお題目を連続して唱えることはないようです。

臨済宗 方広寺派の公案

臨済宗 方広寺派には「公案」と呼ばれる修行があります。わかりやすく言うと「禅の問題」をいい、「禅問答」とも呼ばれているようです。
弟子は、師匠から公案を与えられ、問題を解くことで悟りを開きます。師匠が弟子を悟りへと導くために行われていた方法ですが、歴史は古く、すでにブッタが生まれた頃からあったと考えられているようです。

ただし現在のように禅問答が成立したのは、11世紀前後だと考えられ、禅問答を記録した『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)』によって明らかになりました。
景徳伝灯録には、禅宗の僧侶のエピソードが数多く載せられ、現代でも貴重な書物と考えられています。

不立文字(ふりゅうもんじ)

不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の根本的立場を示す語で、悟りの内容は文字や言説で伝えられるものではなく、仏の教えは師の心から弟子の心へ直接伝えられるものであるという以心伝心の境地を表したものです。

言葉や文字にとらわれず、体験によって伝えるものこそ真髄である、という臨済宗の考えをよく表しています。

臨済宗 方広寺派の葬儀について

葬儀 祭壇
葬儀

臨済宗 方広寺派の葬儀は、故人を仏弟子と考え、仏の世界に送り出すための儀式です。仏が守るべき「戒(かい)」を受けるため、それぞれの儀式を進めていきます。

○枕経・通夜

臨終を迎える人の恐れを取り除き、安らかに旅立てるよう、枕経を唱えます。具体的には「観音経」「大悲円満無礙神咒」などを読み、さらに仏を称えるために「和讃」を唱えます。
通夜では「般若心経」や「白隠禅師差禅和算」などを読み、故人を弔うのがメインです。場所や時間の都合により、枕経と通夜はまとめて行うケースが多いとされます。

○葬式

枕経や通夜が済んだら、葬式が執り行われます。葬式は以下の流れで行われます。

剃髪の偈

葬式では故人を忍び、導く導師(僧侶)が入場し、「剃髪の偈(ていはつのげ)」が行われます。剃髪の偈は故人の髪を剃刀で剃る儀式ですが、真似だけで終わらせることもあるそうです。

懺悔文

剃髪の偈が終わったら、故人のこれまでの行いを懺悔する「懺悔文」を読み上げ、成仏を祈ります。

三帰戒文(さんきかいもん)

「三帰」とは仏・法・僧の3つを指します。仏の教えへの帰依を誓う儀式です。

三聚浄戒(さんじゅじょうかい) と十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)

故人の棺に清めた水を注ぐ儀式です。「酒水灌頂(しゃすいかんじょう)」と呼ばれ、これによって故人は仏の弟子になり、正式に仏に受け入れられると考えられています。

その後香を焚いて霊前に備える「血脈授与」を行い、故人が成仏できるよう、龕前念誦(がんぜんねんじゅ)や起龕諷経(きがんふぎん)・山頭念誦(さんとうねんじゅ)などを唱えて見送ります。

引導法語

故人を浄土へ送るために導師が唱えるものです。後半で「喝!」と導師が叫びますが、これは故人をこの世の未練から解き放つ意味があります。未練を断ち切った故人は、精神的な自由を手にし、安らかに浄土へと旅立っていくそうです。

焼香

故人と血縁関係が近い人から順番に焼香を行います。すべて終了すると、導師が回向文を唱え、妙鉢や太鼓の音で葬儀は終了です。

告別式

棺が葬儀場から運び出され、火葬場へと出発します。

おわりに

臨済宗 方広寺派について見てきました。1371年に無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)が開山してから火事などの惨事に見舞われたものの、無事に復興し現代に受け継がれています。
方広寺には写経や座禅研修が行えるほか、宿泊研修も可能です。非日常を味わえる宿泊研修は大変人気があり、大勢の人が訪れます。

精進料理も楽しめ、緑の豊かな参道や五百羅漢も見どころのひとつです。
除夜の鐘つきや桜まつりなど、年ごとに行事も豊富なので気になる方は、訪れてみてはいかがでしょうか。

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