碑文谷創の葬送基礎講座

碑文谷創の葬送基礎講座22 葬祭業はどう変化してきたか? 戦後葬儀の歴史(上)

投稿日:2020年2月18日 更新日:

 

戦後葬儀の歴史を2回にわたって取り上げる。

目次
・「新生活運動」と葬儀
・地域共同体が中心となった葬儀
・・死亡の高齢化
・祭壇文化
・冠婚葬祭互助会
・祭壇文化の背景となる高度経済成長期
・個人儀礼に
・・多死化
・・少子化
・・高齢化
・・不況の長期化、文化・消費の個人化・多様化
(以上、今回。以下、次回)

・「家族葬」登場で葬儀の小型化
・生花祭壇と洋型霊柩車
・個人化、小型化傾向を確実にしたリーマン・ショック
・・家族の縮小、単独世帯の増加
・情報の個人化、多様化を可能にしたインターネット
・グローバリゼーション
・葬祭サービス

「新生活運動」と葬儀

「敗戦後、全国の婦人会や青年団が冠婚葬祭の簡素化や封建的因習打破、衣食住の合理化に取り組んだ。鳩山一郎内閣はこの動きを国家再建につなげようと1955年、『新生活運動』を提唱。しかし高度経済成長に伴い、『消費は美徳』となる中、運動は姿を消した。」(朝日新聞掲載「キーワード」)

1955(昭和30)年といえば、敗戦後10年、戦後経済の大混乱の後、1950(昭和25)年~1952(昭和27)年の朝鮮半島を二分する朝鮮戦争を背景とする朝鮮戦争特需を経て、日本が高度経済成長期に入るまさにその時期である。
戦争による生活混乱と経済復興が同時にあったその時期に新生活運動は起こり、そしてそれは高度経済成長に呑み込まれながら衰退した。
冠婚葬祭互助会もこの新生活運動を背景として登場した。

 

地域共同体が中心となった葬儀

そもそも日本の葬儀は、現在のように遺族ではなく、地域共同体が中心となって営まれたものであった。
古くはヨーロッパでも見られたことであるが、今のように高齢者の死が多い時代とは異なる。誰が死亡してもおかしくない時代がすぐ前まであった。
死亡によるリスクが大きかったため、遺族は喪に専念することができるように地域共同体が主宰して葬儀を営んだ。

※「死亡の高齢化」というのは戦後のことであり、22年前の1995(平成7)年に比しても著しく伸長している。
(注)「80歳以上」とは死亡時の年齢が80歳以上の人が全死亡者に占める割合の意味。以下、同じ。
      2017年  1995年
・80歳以上 63.5%  29.1%
・65歳以上 90.2%  65.7%
 平均余命で見ても、1955(昭和30)年:男性63.6年・女性67.8年、1975(昭和50)年:男性71.7年・女性76.9年、2005(平成17)年:男性78.6年・女性86.4年、2018(平成30)年:男性81.3年・女性87.3年と著しく伸長している。

この地域共同体に加わって新たな共同体である企業が葬儀に参加するようになるのが1970年代以降のことである。
また、この頃より葬祭業者が葬儀の運営に深く関与するようになる。

葬祭業者の関与といっても、病院から自宅への遺体の移動・安置、納棺、自宅式場の準備、祭壇の設営、通夜や葬儀・告別式の運営、遺体の火葬場移送といった葬儀の外枠に係わる業務が中心であった。
遺族の側にいたのは親戚、地域共同体、僧侶等の宗教者で、1990年代にこれら遺族の周囲にいて遺族をサポートしていた人々が少数化、不在になることにより、葬祭業者が遺族のサポートという課題に直面することになる。

 

祭壇文化

大都市においては昭和初期より葬列に代わって告別式が登場。
この告別式用の装飾壇として祭壇が登場。
初期の祭壇というのは、葬列時代の柩を運ぶ輿(こし)を模した宮型を中心に据え、その後ろに柩を置き、宮型の横には造花のシカ(四華花)を配し、下に位牌、その下に三具足(みつぐそく。香炉,燭台、花立て)を置く、周囲に六灯(ろくちょう。六道に見立てる)、生花、葬列に用いた幡(はた)等。
この祭壇は組み立て式でせいぜい3段くらいが多かった。
これがセット化して全国に販売されるようになったのが1953(昭和28)年頃のことである(葬祭用具問屋の萩原、丸喜の当時の営業担当者に対する取材による)。

 

冠婚葬祭互助会

祭壇が葬祭業者によって提供される中心に位置づくようになるのには、当時の新興事業者である冠婚葬祭互助会の役割が大きかったように思われる。
冠婚葬祭互助会の最初は1948(昭和23)年、横須賀市においてであるが、全国化する契機になったのは1953(昭和28)年に名古屋市で平安閣が誕生して以降のことである。
割賦販売法の下に置かれるようになったのが1972(昭和47)年。
互助会が葬儀の提供役務の中心に祭壇を位置付けることによって葬祭業=祭壇提供業のイメージが全国化するようになった。
また、しばしば葬儀の大きさが祭壇の大きさで測られるようになった。

 

祭壇文化の背景となる高度経済成長期

華やかな祭壇が葬儀式場の中心に位置づき、葬儀が華やかになるのは、当時の高度経済成長期の消費の高まりが影響している。
華やかに死者を送る、ことについては、死者の功績、なければ人徳あるいは戦中、戦後を生き延びた忍耐、努力という賛嘆があった。

そしてこの背後には戦中の死者たちに何もしてやれなかったという悔いがあった、と読むのは深読みであろうか。
これを裏づけるのは戦前まではできなかったお金を出してでも高い位の戒名を競ってつけた流行である。

葬儀が社会儀礼化し、マニュアル化までするのだが、長い葬儀の歴史の中では仇花であったこの時代をどう表現すべきなのだろうか。

 

個人儀礼に

戦後急激に成長し続けてきた日本社会に強烈な停止をもたらしたのが1991(平成3)年のバブル景気の崩壊であった。

そして経済成長期の底流で静かに進行していたのが高齢化であり、それがもたらす多死化、そして家族分散・縮小、少子化であった。

多死化

多死化ということでいえば、戦後長く年間死亡者数は60万人台、70万人台と安定していたが、1990(平成2)年に80万人台に突入、1995(平成7)年に90万人台に、2003(平成15)年に101万人、2007(平成19)年に110万人と急激に増加することになる。

少子化

出生数においても1984(昭和59)年に150万人台を割り148万人に、1986(昭和61)年には130万人台へ、1989(平成元)年には120万人台、1993(平成5)年には110万人台、ついに2005(平成17)年には100万人台へと減少し、死亡数を下回り人口自然減時代に突入した。

高齢化

65歳以上人口が総人口に対して占める割合を高齢化率というが、高齢化率は1975(昭和50)年に8.6%であったのが、1985(昭和60)年に10.3%、2005(平成17)年に20.2%、2017(平成29)年には28%まで増加している。

不況の長期化、文化・消費の個人化・多様化

バブル景気が崩壊しても再び成長が戻るのではないか、という雰囲気が漂っていたが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災を境に社会的には不況の長期化、文化も消費傾向も個人化、多様化へ大きく舵を切った。

企業共同体の終焉、非正規社員の増加

終身雇用制に裏付けられた企業共同体であったが、バブル景気崩壊による経済停滞で高度経済長期を支えた終身雇用制、年功序列を企業は維持できなくなり、1996(平成8)年の労働者派遣法改正を境に非正規従業員が増加、企業共同体は崩壊の途に入る。
(この項続く)

 

  • この記事を書いた人
碑文谷創(ひもんやはじめ)

碑文谷創(ひもんやはじめ)

葬送ジャーナリスト。評論(死、葬送、宗教)

1946年生まれ。東北出身(岩手・一関市、宮城・仙台市)。東京神学大学大学院修士課程中退。出版社に勤務し、44歳で独立、葬送文化専門雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)。

葬祭ディレクター技能審査企画委員(1995~2016))、経産省「ライフエンディング・ステージ」研究会委員(2010~2011)、IFSA(一般社団法人日本遺体衛生保全協会)顧問(1993~)等を歴任。

現在、死、葬送、宗教に関する評論・講演活動を展開。著書:『葬儀概論』(現在4訂)『死に方を忘れた日本人』『「お葬式」はなぜするの ?』、『Q&Aでわかる葬儀・お墓で困らない本』ほか多数。

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