【書籍】一周忌追悼・赤木春恵さん 知られざる母と娘の介護1500日

2019年11月22日(金)『大丈夫、なるようになるから。』刊行

株式会社世界文化社

株式会社世界⽂化社(東京都千代⽥区九段北/代表取締役社⻑:鈴⽊美奈⼦)は、昨年11月29日に惜しまれつつこの世を去った、赤木春恵さんの知られざる介護の日々を綴った書籍『大丈夫、なるようになるから。』を11月22日(金)に刊行しました。

■赤木春恵さん 知られざる母と娘の介護1500日
国民的ホームドラマ『渡る世間は鬼ばかり』『3年B組金八先生』『藍より青く』など数々のドラマ、また数多くの映画や舞台に出演し、名脇役として輝いた赤木春恵さん。2018年11月29日に惜しまれつつ亡くなった赤木さんの知られざる介護の日々、飾らない人となりを、赤木さん自身の言葉と、二人三脚で介護生活を支えた愛娘の野杁(のいり)泉さんによる解説とで綴ります。

「私、また来るね!」
その日、いつものように病室を去るとき、
「無理しないでね。私のことはもういいから……」と、母が言いました。
これが、私に向けた母の最後の言葉になりました。あのとき、これ以上頑張ったら私が倒れてしまうんじゃないかと、母はとても心配していた。今でもそう思うことがあります。 
                      (『大丈夫、なるようになるから。』P.171  より)

■赤木春恵さんが残した“こころの言葉”
芸能界に別れを告げてから亡くなるまでの最晩年、「ベッドで私や家族と話したいくつもの言葉が、母の遺言だった」と語る、娘の野杁 泉さん。母と娘の介護1500日、折々に残した「こころの言葉」の中から37の言葉を紹介。人生の酸いも甘いも知り尽くした赤木さんの言葉は、生きづらい世の中を生きる私たちを励ましてくれます。

「人生、おおむねよければ、すべてよし。」
「白い壁も近くで見ると傷があったり、ムラがあったり、塗り残しがあったり。でも、遠くから見て白かったら、おおむねよしとしよう。考えすぎちゃダメ」
森繁久彌さんから、母がよく言われていたという言葉です。
「努力したからといって報われるとは限らない。教科書がないのが俳優の世界」
母はそんな不条理の極みのような世界で生き残っていく中で、森繁さんに言われた言葉を心に刻み、いつの間にか自分の人生哲学としました。    
                      (『大丈夫、なるようになるから。』 P.207 より)

<目次>
●はじめに ―母と私の1500日
●母の「終活」、私の「介護」ー 舞台引退からのともに過ごした日々と思いがけないごほうび
・まだ体が動くうちに、余裕のあるうちに卒業したい
ー 最後の舞台(87歳/2011年)
・歳をとってしまったことに、あらためて驚いてしまった
ー 在宅介護での介助から介護へ(87歳/2011年)
・身の丈にあった役があればー あるがままに
ー 最初で最後の主演映画『ペコロスの母に会いに行く』(88歳/2012年)
・自分のことは自分でするようにしているんです
ー 初めて介護認定を受ける(88歳/2013年)
・手がちょっと震えるのよ
ー 自宅近くに転院、在宅医療を開始(90歳/2015年)
・何が何でも自宅で介護という選択はしないで
ー 大腿骨の骨折 手術をしない選択(91歳/2015年)
・私は幸せだわ
ー 自分の意志で介護施設へ(91歳/2015年)
・人生は、自分との闘いです
ー 延命治療はしない(93歳/2017年)
・私のことはもういいから。
― 最後の日々(94歳/2018年)
●年表
●ありのままを生きる ―折々に残した「こころの言葉」
●あとがき ―感謝の気持ちを込めて

<著者プロフィール>
著者/赤木春恵(あかぎ・はるえ)
1924年、旧満州生まれ-2018年、心不全のため死去。松竹のニューフェイスとして1940年、女優に。慰問劇団に参加している最中、終戦を迎え、幾多の辛酸を乗り越え帰国。結婚、出産を経て数多くの映画やテレビドラマ、舞台に出演。テレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』での姑としての演技は鮮烈な印象を与えた。2011年、舞台からの引退を表明。2013年に映画『ペコロスの母に会いに行く』で初めて映画主演、世界最高齢での映画初主演としてギネス世界記録に認定される。

著者/野杁 泉 (のいり・いずみ)
1957年、京都市生まれ。20歳頃より母・赤木春恵を公私共にサポートする。1986年結婚。同年、夫が俳優のマネジメントオフィスを設立。デスクとして現在まで共に歩む。1987年に長女、1989年に長男を出産。2018年、母の死により娘を卒業する。

 

PR TIMESより転載

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