「国葬」は国家に多大な功績を遺した方が亡くなった際に、国が主体となって行われる葬送式典です。
アメリカやフランスなど海外では、現在でも国の威信(いしん)をかけた行事として厳粛(げんしゅく)に行われていますが、日本では第二次世界大戦後ほとんど行われていません。
そこで本記事では、日本で「国葬」が行われなくなった経緯や、合同葬・団体葬の施行について紹介いたします。
現在では大規模な団体葬を扱うことも少なくなっていますが、葬儀社として知っておくべき事柄となりますので、ぜひ最後までご覧ください。
国葬・国民葬とは
「国葬」と「国民葬」はほぼ同義となっていますが「国葬」が全費用を国費で賄う(まかなう)のに対し、「国民葬」は費用の一部を遺族や国民有志(ゆうし)などが負担する点で異なります。
第二次大戦以前は日本にも「国葬令(こくそうれい)」が存在し、国葬の対象者などを規定していましたが、第二次大戦後「国葬令」は失効しています。
国葬の定義
「国葬」とは国が主催者となり公式な式典として行う葬送儀式で、その費用は国庫から拠出されます。
天皇陛下が崩御された際の「大喪の礼(たいそうのれい)」は国事行為として扱われる「国葬」です。
しかし、神式で行われる皇室の葬送儀式「大喪儀(たいそうぎ)」については、あくまでも皇室行事の1種とされており、厳密には国葬と分けて考えられています。
明治時代までは勅令(ちょくれい:天皇の許可)によって「国葬」が行われていましたが、大正時代には「国葬令」によって明文化されました。
「国葬」の式次第も時代とともに変遷しており、奈良時代から江戸時代までは基本的に仏式で行われていましたが、明治時代に入ってからは神式に変更されています。
また、第二次大戦後は政教分離の原則にのっとり、「国葬」は宗教的要素を排した無宗教形式で行われています。
しかし実際のところ、天皇陛下以外で「国葬」として行われたのは、吉田 茂(1967年)の1例のみです。
日本における「国葬」は法律的に禁じられているわけではありませんが、規定する法律も存在しないため、行われていないのが実情といえるでしょう。
とはいえ、「国葬」の閣議決定が国会で承認されれば「国葬」の実施は可能ですので、今後も行われる可能性はあります。
日本で皇室以外の国葬が実施困難な理由
第二次世界大戦以前の日本における勅令は、法律と同等の力をもっていましたが、戦後に象徴天皇制に移行したため「国葬令」も効力を失いました。
そのため現在の日本では「国葬」を含む「公葬」を規定する法律はなく、事実上は実施困難な状況です。(天皇の「大喪の礼」については皇室典範にて規定)
しかし歴代内閣総理大臣経験者は、内閣と政党の合同葬という形式で行われるケースも多く、費用は国庫の予備費と政党が半分ずつ負担するのが通例となっています。
本来、国庫からの支出には国会の議決が必要ですが、予備費に関しては内閣の責任で支出可能です。
一応は事後に国会の承諾(しょうだく)を得ることになっていますが、承諾が得られなくても違法ではないため、特に問題はありません。
こういった事情から、内閣総理大臣経験者については、内閣と政党の合同葬という形式が今後も継続すると予想されます。
日本で過去に行われた国葬
日本が近代的な法治国家となって以降に、皇族を除き「国葬」で送られた人物は以下の通りです。
第二次世界大戦以前の「国葬」対象者は、皇族や侯爵以上の爵位を持つ者、明治維新の功労者、総理大臣や元帥の経験者で、国家への貢献が大きい人物に限定されていました。
上記条件を満たしたすべてのケースで「国葬」が行われたわけではなく、「国葬法」に照らし合わせて個別に判断されていたようです。
なお戦前の内閣総理大臣 大隈重信については、費用の全額を国が負担する「国葬」ではなく、一部を遺族などが負担する「国民葬」として行われました。
戦後唯一の「国葬」である吉田 茂のケースについては、当時の内閣総理大臣 佐藤 栄作の強い意向もあり、閣議決定により国葬とされた特例中の特例となっています。
戦後に発布された日本国憲法では政教分離(せいきょうぶんり)が原則となっていたため、当然ながら野党の反発にあいましたが、宗教儀礼を最小限に抑えることで何とか実施にこぎつけたようです。
それまでの「国葬」は、故人の自宅または日比谷公園が葬儀場となるケースが多かったのですが、吉田 茂の「国葬」は日本武道館で実施されました。
内閣・政党合同葬など国が関与する形式で送られたケース
戦後における衆・参両議院の議長や内閣総理大臣経験者などの死去にあたっては、政党や国民有志と内閣が費用を折半(せっぱん:半分に分けること)する合同葬が多くなっています。
戦後に衆議院葬(衆議院・内閣合同葬)、参議院葬(参議院・内閣合同葬)、内閣・自由民主党合同葬で見送られたケースは以下の通りです。
なお佐藤 栄作については、自由民主党と国民有志により費用負担された「国民葬」として行われています。
また報道に関しては、葬送の場ということもあって大々的に公開されるケースは少なく、ほとんどは代表撮影となっているようです。
代表撮影:報道カメラマンの一部が撮影した画像を、報道各社が共有する形式
安倍家の葬儀は代々増上寺で
凶弾に倒れた安倍晋三元首相の葬儀は芝の増上寺で営まれましたが、実は父親の安倍晋太郎および祖父の岸信介の葬儀も同寺で行われています。
増上寺は浄土宗の寺院ですが、安倍晋三元首相は浄土宗における浄光会の世話人も務めていることから、同寺での葬儀は自然といえるでしょう。
また数多くの参列者に対応可能な寺院が限られる点も、増上寺が選ばれた理由の一つと思われます。
増上寺の葬儀場は檀信徒以外も利用可能なため、過去にも多くの有名人の葬儀が営まれています。
海外で国葬された日本人
日本国内だけでなく世界的に評価された人物が、海外において「国葬」で見送られたケースもあります。
主だった事例を以下に紹介します。
安達 峰一郎(あだち みねいちろう)
アジア人として初めて1930年に国際司法裁判所(オランダ・ハーグ市)の判事となり、翌年には裁判長となった日本の法学博士です。
各国から「世界の良心」として高く評価された結果、12か国から第一等勲章が贈られ、日本でも「旭日桐花大綬章(きょくじつとうかだいじゅしょう)」を受けています。
外交官としてベルギー大使・国際連盟日本代表・フランス大使などを歴任し、1934年12月28日に帰らぬ人となりました。
1935年1月にオランダのハーグ市において、オランダ国国葬・常設国際司法裁判所所葬が行われ、多くの市民に見送られました。
近藤 常子(こんどう つねこ)
岐阜県出身の日本人看護婦で、第一次世界大戦時には中国に従軍し、野戦病院で治療にあたった旧ユーゴスラビア人と結婚後はユーゴスラビアに移住しました。
第二次世界大戦では赤十字にて看護婦長を務め、赤十字最高勲章を授与されています。
夫と息子を亡くしたのちもユーゴスラビアに残り、日本文化を伝える教室を運営するなど、日本とユーゴスラビアの友好に尽力し、現地の人々からは「マダム・ヤパンカ」と呼ばれていたようです。
その後もユーゴスラビアにとどまり続けた彼女の死に際して、1963年に「国葬」が行われました。
西岡京治(にしおか けいじ)
海外技術協力事業団の日本人農業指導者で、1964年から20年以上にわたってブータンの農業近代化に尽力しました。
焼き畑農業が中心だったブータンに稲作を定着させ、定住生活をもたらした功績により、ブータン国王から「最高に優れた人」を意味する名誉称号「ダショー」を授けられた人物です。
現在でもブータンでは、西岡が伝えた日本式の「並木植え(縦横等間隔に稲を植える方法)」で田植えが行われています。
1992年3月21日に訃報が伝えられると、妻子の希望により葬儀はブータンで行われることになり、3月26日にブータン農業大臣が葬儀委員長を務める「国葬」として実施され、現地で荼毘(だび:火葬)に付されました。
国葬にはブータン全土より彼を慕う5,000人のブータン国民が、弔問に駆け付けたようです。
国内要人襲撃例
比較的治安のよいイメージの日本ですが、過去には意外なほど多くの要人襲撃事件が発生しており、亡くなった方も少なくありません。
戦後に発生した、主な要人襲撃事件を一覧にまとめました。
第二次世界大戦前にくらべれば少なくなっていますが、想像以上に発生件数は多く感じられるのではないでしょうか。
こういった事件の撲滅を祈るばかりです。
団体葬とは
「国葬」も含め、故人が所属した団体などが主体となって行う葬儀を「団体葬」といいます。
中でも主体が企業の場合を「社葬」と呼び、個人で営む一般葬にくらべ参列者は格段に多くなるのが特徴です。
団体葬と合同葬の違い
「国葬」や「社葬」といった葬送形式では、基本的に葬儀費用のすべてを団体が負担するのが通例となっています。
一方「合同葬」は、葬儀費用の多くを主体となる団体が負担するものの、故人の遺族などが一部を負担する形式です。
また2つ以上の団体が葬儀費用を折半する場合も「合同葬」と呼ばれ、今回紹介した「内閣・自民党合同葬」「衆議院葬」「参議院葬」も含まれます。
通常の葬儀では、喪主となる遺族が葬儀の施主を兼任するのが一般的ですが、団体葬・合同葬では遺族が喪主、団体が施主となります。
そのため葬儀全体の仕切りを、団体から選ばれた葬儀委員長が担うのが、団体葬・合同葬の特徴です。
団体葬・合同葬の流れ
団体葬・合同葬が行われる場合、参列者数は一般葬の比ではないため、関係各所への連絡や調整に時間が必要です。
そのため、故人が亡くなってすぐに仮葬儀として家族だけで密葬を営み、団体葬・合同葬を本葬とするのが従来の流れでした。
こういった事情から団体葬・合同葬についても、かつては仏式であれば僧侶、神式であれば神職が立ち合い、それぞれの宗教儀礼にのっとって実施されるケースが多かったようです。
もちろん現在でも宗教色を取り入れた団体葬・合同葬はありますが、全体の傾向としては宗教色を排した形式が主流となりつつあります。
ここでは参考までに、仏式での団体葬の一般的な式次第を紹介します。
仏式による団体葬の一般的な式次第
- 開式の1時間ほど前から受付開始
- 遺族・参列者着席
- 開式の辞
- 導師(どうし)入場
- 読経
- 焼香
- 弔辞(ちょうじ)
- 弔電(ちょうでん)紹介
- 葬儀委員長挨拶
- 喪主挨拶
- 読経
- 導師退場
- 閉式の辞
大まかな流れは上記のようになりますが、団体や遺族の意向・宗派などにより式次第も異なりますので、事前の入念な打ち合わせが欠かせません。
また地域の葬送習慣もありますので、さまざまな調整が必要です。
近年では「お別れ会」形式が主流
かつては、仮葬儀として家族での「密葬」を行い、後日の「社葬」を本葬とするケースが多かったのですが、近年では「お別れ会」「偲ぶ会」といった形式で実施されるケースが多くなっています。
「お別れ会」「偲ぶ会」は宗教儀式ではなく、あくまで「故人に別れを告げる」ための集まりですので、喪主や施主の負担も軽減できます。
また参列者にとっても、かつての「社葬」のような形式ばったものより、肩の力を抜いて参加できる「お別れ会」のほうが好まれる傾向にあるようです。
団体葬・合同葬を行ううえでの注意点
最近の一般的な葬儀では、喪主であってもブラックフォーマルの喪服を着用するケースが多いですが、大規模な団体葬の葬儀委員長は正礼装のモーニングコートを着用するケースも少なくありません。
喪主となる遺族と服装の格にズレが生じて、参列者にちぐはぐな印象を与えないよう、事前のすり合わせが不可欠です。
また仏式であれば焼香、神式であれば玉串奉奠(たまぐしほうてん)、キリスト教式や無宗教式では献花など、宗教儀礼には参列者の全員参加が理想ですが、参列者が多数になる場合は難しくなります。
こういったケースでは、一部の参列者が代表して行うケースもありますが、禍根(かこん)を残すことのないよう人選に配慮が必要です。
まとめ~国葬も団体葬も個人葬も、本質的には同じ葬送儀式であることを念頭に~
今回は「国葬」や「合同葬」を中心にお伝えしましたが、どういった形式であっても「故人の死を悼み、安らかな眠りを祈る」という本質は変わりません。
規模の大小に関わらず、弔いの本質を念頭に置いてことに当たることが、式典を滞りなく営むための第一歩といえるでしょう。
地域密着型の葬儀社様が、「国葬」や国が関わる「合同葬」に携わる機会は少ないと思いますが、地元企業の「社葬」を担当する可能性は十分にあります。
最近では中小企業でも実施可能な「お別れ会」形式の「社葬」が登場したことで、実施を検討するケースが増えているようです。
葬儀の小規模化が進む現在では、個人・法人問わず「お別れ会」需要も増加しています。
家族葬後に大勢の弔問客が訪れて遺族が疲弊してしまうなど、葬儀の小規模化の副作用も出始めていますが、「お別れ会」「偲ぶ会」で対応できる部分もありますので、地域密着葬儀社様も力を入れてみてはいかがでしょうか?
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